路傍の意地

70歳目前オヤジの、叫びとささやき

橋本治の恵み

 橋本治氏について、さほど多くのことを知っているわけではない。


 一番古い記憶は、今から40年ほど前。
 古いなあ、話が。我ながら驚いてしまうが、いまだに鮮明に覚えているのだからしかたがない。何気なくテレビを見ていたら、デニムのつなぎを着た長髪の青年が登場して、タバコをすったり寝転がったりしながら、カメラの前でニコニコしつつ何やら一生懸命喋っていたのである。おせんべいのような、丸くて平たい顔がとても印象的だった。

 それが橋本治氏だった。1968年の東大駒場祭のポスターの絵とコピーを書いた本人として紹介されていた。当時、20歳。東大文学部国文科の学生であり、かつイラストレーターだったのである。どれだけの人が覚えているか知らないが「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」という名コピーとともに橋本氏の名前は人々にしっかりと記憶された。

 それから20年。友人(男性)がなにやら派手なセーターを着ていた。胸のあたりになんだか分からないが絵が編みこまれている。
「どうしたの、そのセーター」
 と聞くと、
「あ、これ? 橋本治さんにもらったんだよ。橋本さん、編み物うまいんだよ」
 ふーん、器用な人なんだなあ、とそのとき思った。

 それからまたまた20年。
 昨年の小林秀雄賞の授賞式での橋本氏のスピーチがとても秀逸だったと友人から聞いた。受賞者は内田樹氏。文春新書の「私家版・ユダヤ文化論」での授賞である。そのお祝いのスピーチをするために、選考委員を代表して橋本氏がマイクの前に立った。

 内田氏の学生時代の卒論がモーリス・メルロ=ポンティだったことを受けて、
「人は学生時代に、メルロ=ポンティに出会うか、カルロ・ポンティに出会うかによって、その後の人生が大きく変わる」
 うまいこというなあ。センスいいなあ、と大いに感心した。
ちなみに書いておくと、メルロ=・ポンティはフランスの哲学者、カルロ・ポンティはイタリア人の映画プロデューサーでソフィア・ローレンの亭主である。

 私の中で、橋本治氏は、絵も描けば、コピーもものする器用で、センスのいい人として登録されたのだった。その橋本氏が「小林秀雄の恵み」(新潮社)なる評論を上梓したというので、早速買って読み始めた。何しろ、小林秀雄賞の選考委員でもある。さぞや、数々の「恵み」が軽快に披露されているのだろう、と思ったのである。

 読み始めて驚いた。なんじゃ、こりゃ、とひっくりかえったのである。申し訳ないがそれが素直な感想だったのである。それまで、橋本氏の本を読んだことがなかったので、なおのこと「びっくり」に拍車がかかった。
「こんにちわー」と橋本家の門扉を開けて玄関に向かう道が、あまりの悪路でひっくり返りそうになったような感じなのである。おそらく、本書を読了した人は、作者自身と編集者と校正者と、あとはGOOGLEのスキャナーくらいのもんではないか、と思う。

 つべこべ言ってないで引用しよう。

<読み手である私が「小林秀雄を読む」とは、私にとって必要なところ、分かるところだけを拾って読むのに過ぎない。「私の読んだ小林秀雄」は、「小林秀雄の語ったこと」の一部に過ぎない。「私の分かったところ」に「私の分からないところ」を合わせて、それが「小林秀雄の語ったこと」である。「分かる、分からない」は読み手の能力の問題でもあるが、それを超えて「分からない」になる部分もある。それは、時代の差である。小林秀雄が死んだのは、私が小林秀雄を読む二年前だが、それは偶然に過ぎない。しかしあるいは、必然かもしれない。なぜならば、私にとって、小林秀雄は初めから「古典」だからである。(略)
 
 小林秀雄は、私とは違う時代に生きていた。だから、私が小林秀雄を読んで「分からない」と思う部分は、彼の生きた時代のもたらした部分である------そのように思うからこそ、「分からない」ということが気にならない。それは、自分の生きている時代とは違う、「小林秀雄の生きていた時代」に関わることだからである。その「分からなさ」を看過してしまえば、容易に小林秀雄は分かる。そしてそうなった時、小林秀雄は私の同時代人である。しかし、その私の「分かったこと=読んだこと」は、小林秀雄の語ったことのすべてではない。一部である。私は、小林秀雄の「語ったこと」にしか関心がない。小林秀雄の「語らない部分」はどうでもよい。そして、私が知るべきことは、「小林秀雄の語った、私の分からない部分」なのである。>
(P15-16)

 もう、分かったよー。と叫びたくなってくる。くどいよーーーーー。
 しかし、まだまだ続くよ。

<『本居宣長』をもう一度読まなければならないと思った二〇〇三年の私は、小林秀雄の「分かる」と「分からない」の違いを、明確に意識していたわけではない。ただ、「今読んで分からない部分はあるのだろうか?」と思って読み始めた。「おそらく、小林秀雄の語ることのすべては分かるだろう」と、考えてもいた。「『本居宣長』に書かれたあらかたはもう知っている」と思えばこそ、そのようにも思った。ところが、読み始めてしばらくして、愕然とした。愕然として仰天して、感動に手が震えた。>(P17-18)

 私も愕然とした。愕然として仰天して、本を投げ出した。
 もう、勘弁してください、という心境である。

 世の中に、難解な文章というものがあることは分かる。難解にしか表現できないことがらが存在するからである。しかし、難解な文章と悪文は断固として違う。難解に書く必然性のない難解な文章のことを悪文、というのである。そして、上記の文章は、正真正銘の悪文である。

  なんのために、こんな牛のよだれのような文章を書こうと、橋本氏が思い立ったのか、私にはさっぱり分からないのである。しかも、第一章の冒頭に、である。さあ、旨い寿司を食うぞ、と思って寿司屋の暖簾を分けて入ったら、いきなり、わけもなく、塩をまかれたような気分である。せめて、終章ぐらいのリズムの文章をお書きいただきたかった、と一読者として慨嘆せざるをえない。「小林秀雄の恵み」どころか「橋本治の恵み」にも邂逅することなく、すごすごと退散するしかなかったのである。

 こうなったら、悪文ついでに、もうひとつ書いておこう(笑)。
 かねてより、不思議に思うことがある。朝日新聞大江健三郎のエッセイである。なぜ、朝日が、「名文と呼ぶにはいささか困難を覚える」氏の文章に、大きなスペースを割くのか、これも皆目分からない。たまたま、朝日の2月19日付け朝刊で氏の「定義集」と題された一文を目にした。

 前段で、氏は、学生時代から、気に入った文章をカードに記録し、正確に引用するように心がけていた、と述べる。しかし、最近、その一節は覚えているものの、どの本から書き写したものだったかをしばしば忘れている、と書く。それを、受けて、

<その私は家内からどういう言葉なのかを聞かれ、きみもぼくから聞かされたはずだけれど、と話したのです。シェークスピアの二行ほどをフランスの小説家が引用していて、それをカードにとって訳したのをよく口にしてたから・・・・・記憶にあるのは、

----そのように考え始めてはいけない、というところでね。
 私は読んだ本を整理するのが仕事、とは幾度も書いてきました。家内は、人生で本当に大切に感じた本はすべてしまっておいてるのじゃないか、と思われるタイプ。高校を出たばかりの家内と私が知り合ったのは、友達のお母さんから、戦争の始まったころに出た本で(今年、朝日賞を受けられた石井桃子さんの訳の)「熊のプーさん」「プー横丁にたった家」を、娘が貸し失って嘆いている、どこかで見つけられないか、と頼まれたのがきっかけです。すぐに探して送ったのに礼状が来て、娘さんとは今も一緒にいます。>

 分からなくはない。分からなくはないが、いろいろと想像して解釈しなくてはならない箇所が多すぎる。そのような文章もまた、悪文と呼ばれる運命にあるのである。

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2008年2月に記す

アラン・ロブ=グリエが死んだ

2008年2月にこんなことを書いていた。

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  アラン・ロブ=グリエが死んだ。

    新聞の死亡欄に、ひげもじゃの老いた顔が載っているのを見つけて、ああ、死んじゃったのかあ、という思いとともに、三十数年前の自分の姿が頭の中のスクリーンに甦った。

    新潮社からでた、平岡篤頼訳の「ニューヨーク革命計画」を小脇に抱え、長髪で痩せこけて、サンダルをぞろぞろ引きずりながら、ハイライトをくわえて、うつむきながらキャンパスを歩いていた自分の姿を思い出した。
    本当に、暗かったねえ、あのころは。神様が現れて、もう一度、あの時代に戻らせてやろうという思し召しをお示しくださったとしても、丁重にお断り申し上げたいくらいに、時代も自分自身も暗かった。


    しかし、何を好き好んで、ロブ=グリエなんか読んでいたんだろうか。いや、それは正確ではない。「ニューヨーク革命計画」を読了した記憶はない、どころか、どんな話だったのかも皆目思い出せないのだ。

    思い出せないのは、ロブ=グリエだけではない。 ミシェル・ビュトールナタリー・サロートクロード・シモンもフィリップ・ソレルスル・クレジオも、なーーんにも、覚えてはいない。うんうんいいながら、格闘しつつ何冊かは読んだはずなのに、そのかけらさえ、脳味噌の中には残ってはいないのだ。

  それも、しょうがないのである。彼ら、ヌーヴォー・ロマンの作家たちは、従来の小説の概念や作法を根底から否定してスタートしたわけだから、もう、何が何だかよく分からない、のである。ストーリーもあるのかないのかよく分からない、面白いのか面白くないのかさえ、分からない。ということは、面白くなかったんだろうな、きっと。面白ければ、少なくとも、なんであるのかは分かったはずだから。

  そのころからである。フランス人というのは、本当に分けの分かんないことを、ぐずぐずぐずぐず表現する面倒くさい人たちなのである、ということを理解し始めたのは。

  しかし、当時の大学生たちは、戦後のフランスに発祥した、そんな文学の新思潮に、真摯に立ち向かおうとしていたのである。今から思うと、なんでそんなに真面目だったのか、よく分からない。よく分からないが、その真面目さを思い出すと、ちょっと泣けてきそうになる。
   サルトルカミュの次の世代に立ち現れた、実験的小説を理解しようと悪戦苦闘していたのである。本来ならば、まず語学を習得した後に原書に向かうべきなのに、男子学生は、そんな辛気臭いことはやってられんない、と平岡篤頼氏や菅野昭正氏の翻訳本に頼ったのだった。

  愚かなことであった。今ならば、たとえ、迂遠な道のりに見えたとしても、語学をまず習得することが最短コースであることを知っている。「語学を学ぶ」ということは、単に単語を覚えたり、文法をマスターしたりすることではなく、「その言語で生きる人々の物の考え方を学ぶ」ことであるから、その回路を通過して新思潮に接するのが、理解に到達する最も手っ取り早い方法なのである。後悔先に立たず、とはよく言ったものである。

  で、気分がとってもおフランスになっていたところに、京都に住むエリチンこと関谷江里さんからメールがとどいた。関谷さんは、泣く子も黙る、道で遊んでいた子も走って逃げる、パリ&京都マニアである。ソルボンヌの「外国人学生のためのフランス文明講座」の一番難しいクラスをちゃんと履修した、まじめな方であるが、なぜか、京都の魅力に取り付かれ、昨年、東京の自宅を引き払って、京都に移り住んでしまったお方である。仕事で京都を訪れた際には一緒にご飯を食べたり、お茶を飲みに行ったりしていただいている仲である。

   その関谷さんと、数年前、今出川のル・プチ・メック(Le Petit Mec )というパン屋さんに出かけたことがある。小さなパン屋さんだが、気分は完全にパリのパン屋さんという風情で、壁にはゴダールの映画「Pierrot Le Fou」(気違いピエロ)やルイ・マルの「Zazie dans le métro」(地下鉄のザジレイモン・クノーが原作だったなあ、そういえば)の馬鹿でかいポスターが貼られ、フランスのラジオ放送がずーっと流れている。その空間にいると、その昔、ヌーヴォー・ロマンに入れ込んでいた頃のことなどを思い起こさずにはいられないパン屋さんなのである。

「いいなあ、フランス語の放送が流れてると、本当にパリみたいだね」
 というと、真っ赤なセーターに真っ赤なマニュキュアの関谷さんは、
「わたしなんか、おうちでもフランス語の放送をずーーーーーーっと流してます」
 と、真っ赤な口紅を塗った唇をピクピクさせて自慢するのだった。
 その関谷さんから、 こんなメールが来た。

http://www.france-info.com/spip.php?rubrique9&theme=9 

↑お話ししたフランスアンフォです。
右に出てくる黒枠の、
player のところ、
direct で聴けます。

  これをかけっぱなしにしたら「ル・プチメック」状態になります♪>

  試してみたら、なるほど、気分はおフランスである。しかも、タダというのが私の性分にマッチしていて、まことに、トレビアンなのである。

 

 

 
 

 

 

ケアリイ・レイシェルで泣く

  ブログ初心者なので、今日まで一生懸命、よしなしことをガリガリ書き込んできたけれど、あんまり全力投球すると、身がもたない、というか、本業に差し支えるということが、うっすらと分かってきた。
  確定申告もしなくちゃいけないし・・・・。

  たまには、軽―く、書き流すこともしとかないと。

  車を運転しながら、ラジオで、ケアリイ・レイシェルというハワイ在住の歌手が歌う、「カ・ノホナ・ピリ・カイ」という曲を聴いて、涙がこぼれた。たまに、そんな曲に出会うことがある。日々の憂きことが一瞬、洗い流されて、心が澄明に静まるように感じることがある。
  ちょっと、弱っているのかな。
   
  すぐにその曲が収められているアルバムを入手した。リリースされたのは3年ほど前だから、ずいぶんと経ってから聞いたことになる。
  アルバムのサブタイトルに、SCENT OF ISLANDS, SCENT OF MEMORIES  とある。

   島の匂い、思い出の香り。

  いいタイトルだと思う。
「カ・ノホナ・ピリ・カイ」を聞いて涙した、と書いたが実はこの曲は沖縄出身のグループ、ビギンの「涙そうそう」をカバーしたもの。沖縄から発された叙情が、ハワイの感性に掬い上げられて、美しくも優しい独特のリリシズムをまとって生まれ変わったように思われる。

 

涙そうそう」のカバーではあるけれど、聞いているとあれっと思う。確かに出だしは「涙そうそう」なのだけれど、途中から、ごく自然に、似ているけれど、まったく違う曲にすりかわっていく。
   滑らかに、静かに優しく。

  滞日中だったケアリイ・レイシェルはたまたまビギンが歌う「涙そうそう」を聞いて衝撃を受け、このアルバムの柱に据えることを決意したという。が、カバー化はたやすくなかった、とアルバムに収められたライナーノーツの中で語っている。

「ビギンが作ったこの素晴らしい曲を、私はただカバーしたいと思っていたわけではないんです。そこから私は、私自身の歌が現れるのをじっと待ちました。<涙そうそう>を聴いたときから私は感じていたのです、そこには何か私に歌われるべき別の物語がある、と。私は待ち、それから作業を始めましたが、作業も困難を極めました。様々な変換やアレンジを試しました。でも、私は心の声が言うままに従い、そうやって<カ・ノホナ・ピリ・カイ>は完成したのです」(今井栄一氏のライナーノーツより)

  素敵な話である。ケアリイ・レイシェルは「涙そうそう」を自分流に歌いこなそうとしたわけではなく、「何か私に歌われるべき別の物語」があるような気がして、その到来をじっと待ち続けていたのである。
   沖縄の旋律が風に乗って、遥かハワイに舞い降り、その地でゆっくりと醸成されるのを待って、静かに、歌い上げたのである。

   彼の歌声に身を任せると、島の匂い、思い出の香りが、聞くものの心を、あたたかく、包み込んでくれるような気がする。

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2008年2月にこんなことを書いていた。

井上ひさし著「社会とことば  発掘エッセイ・セレクション」を読む

 

  不思議でしょうがないのである。

  コロナ禍に際して、政府や自治体は日本国民に対して警戒メッセージをいろいろと発し続けているが、なぜ、日本語で伝えようとしないのだろうか? 「ステイホーム」「東京アラート」「高リスク施設」「クラスター」「オーバーシュート」「ロックダウン」などなど。挙句の果ては「GO TOトラベル」ときた。

  できるだけ多くの日本人(とりわけ小さい子供や高齢者)に強くメッセージを伝えねばならないときに、なぜ外国語を使うのだろうか? 

  正気の沙汰とは思えない。

「ステイホーム」と初めて耳にしたとき、犬じゃあるまいし、と思った。要路に、怪しむ人はいなかったのだろうか? 敗戦を機に日本は米国の属国と化したが、それがいよいよ内面化された一兆候なのだろうか?

  もし、フランスやドイツや中国で国家的標語が英語の外来語で書かれたとしたら国民は黙ってはいなかっただろう。

  こんな時、日本語に厳しかった井上ひさしさんが生きていたらどう言っただろうかと思っていた矢先、本書が出た。これまで単行本に収録されなかった随筆をまとめたものだが、これによって、08年当時、すでに大野晋さんは「<外来語の氾濫が心配である>という哀しみにも似た憂い」を持っていたことを知った。ある会議で、役人の「このたびのライブラリーのリニューアルについては、コミュニティーとのパートナーシップを重視しよう」という発言を聞いて暗澹たる気持ちになったらしい。丸谷才一さんも「意味が曖昧なままに外来語で考え、外来語で話し合うと、その答えはますます曖昧なものになりますよ」と案じている。私見では、外来語の浸食はIT革命によって加速したようにも思える。

  ちなみにフランスは91年にトゥボン(TOUS BON)法なるものを制定。「この法律の中には『商品名や宣伝文にもフランス語を使うこと』という一条があるとのこと。もちろん違反者には、罰金(百万円ぐらい)、あるいは懲役(二年ぐらい)が待っているそうだから、フランス人も必死なのだ」と井上さんは書いている。

  続けて辛辣に「カタカナ大好きなお役人と並んで日本語紊乱軍の先頭にいる」のはJRだと怒る。じつに珍妙な名前の列車が日本中を走り回っているからだ(96年当時)。

「快速さわやかウォーキング飯田号(東海道飯田線)、ナイスホリデー近江路(東海道本線)、サンダーバード(特急スーパー雷鳥のこと)、シーライングラシア(東北・石巻気仙沼線)、スーパーホワイトアロー号(函館本線)ビバあいづ(喜多方-郡山)、SLあそBOY(肥後本線)……」

「いったいにJRの列車名は(……)、漢字地名は読みやすくするために平仮名にして、それにハイカラ味を出すためにカタカナの(ときにはアルファベットのままの)英語を付けるという原則で命名されているようだ。云ってみれば、平仮名のぼた餅を頬張らせておいて、同時にカタカナ英語でビンタを張るやり方、どちらも無用である。」

  正岡子規は必死になって野球用語を訳出した。「死球、四球、満塁、飛球、打者、走者などみんな彼の訳語である。その上、日本で初めての野球の和歌を詠み、野球の小説を書いた」ではないかとも。

  本書はもちろん外来語禍以外にも社会や日本語についてのいろいろな知見や意見に富んでいて楽しい。例えばヒゲだが、「上唇のものは髭(し)、下唇のものは鬚(しゅ)、頬の物は髯(ぜん)」なんだそうである。

またしばしば死への恐怖と洞察が語られるていることも興味深い。 

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2020年8月 月刊「hanada」に寄稿したものです

権代美重子著「日本のお弁当文化 知恵と美意識の小宇宙 」を読む

 

   普通の人の数倍はお弁当を食べて生きてきた、といっても言い過ぎではない。八十~九十年代、「週刊文春」編集部に延べ十二年間在籍していたが、その間、ずっと土日は出勤日だった。土曜日はまだいくつかの店が出前をしていたが、日曜日となると出前に応じてくれる店がない。そんなわけで、十二年の間、日曜日はずっと弁当を食べ続けた。四ツ谷・三金のトンカツ弁当、今はもうない麹町の割烹・葵の松花堂弁当、同じく今はなくなってしまった平河町の焼肉・東生苑のカルビ弁当、名前は忘れてしまった赤坂の弁当屋の鮭弁当……。食べも食べたり、ざっと六百箱(と数えればいいのかな)。その他の編集部時代にも欧風カレー弁当などを食べまくっていたから、これまでの人生で軽く二千食は食べただろう。それだけ食べたら、弁当など、もう見たくもないのではないかと思われるかもしれないが、あにはからんや、お弁当が大好物で、思わず本書を手にとってしまったという次第。

 本書で、日本のお弁当がパリでも大人気であることを知った。ヨーロッパでは日本のマンガやアニメが人気で、子供たちは食い入るように見入っている。で、主人公が竹の皮に包まれたおにぎりや、キャラ弁やらタコさんウインナーを食べるシーンに出くわすと「こりゃなんだ!」とびっくりするらしい。そんな素朴な関心があったものだから、今ではお弁当専門店が繁盛しているという。

   以下は本書に記されたエピソード。江戸時代。各藩大名は月に三回、将軍に拝謁するため江戸城本丸に登城。このときに持参したのが「御登城弁当」なるもの。ある藩主のメニューが残っている。「椎茸、干瓢、味噌漬大根、握飯」。将軍の手前、ずいぶんと遠慮していたことが分かる。

 一方、庶民の弁当はというと、行楽と切っても切れないものだった。なんといっても「花見弁当」。着飾って、飛鳥山にお花見に出かける人たちの上等なお弁当はお重に入って豪華絢爛。「桜鯛、わか鮎、早竹の子、早わらび、よめな、つくし」などバラエティ豊富。今でもこんなお弁当はなかなか味わえない。もっとも、熊さん八っあんになると「卵焼きに蒲鉾」とぐっと質素になるのだが。

 庶民のもうひとつの娯楽が「歌舞伎観劇」。その芝居と芝居の幕間にちゃちゃっと食べるために考えられたのが「幕の内弁当」。忠実に再現されたものが写真で紹介されているが、そのボリュームにギョッとさせられる。「円扁平の焼き握り飯十個に玉子焼・蒲鉾・煮物(蒟蒻、焼豆腐、干瓢、里芋)」(『守貞謾稿』)。今の値段に直すと三千円也。おにぎりの大きさはコンビニで売っているものくらい。とても十個は食べられそうにない。

 そして近年。忘れてならないのが「駅弁」。第一号は明治十八年に宇都宮駅で売られた。「握り飯二個とたくあんを竹の皮で包んだもの」。鉄道会社の委託を受けて地元の旅館が売り出したものだという。

   その駅弁も今では百花繚乱。新神戸駅の「夢の超特急0系新幹線弁当」やら「あっちっち但馬牛すきやき弁当」やら、高松駅の「アンパンマン弁当」やら、松阪駅の「黒毛和牛モー太郎弁当」やら、鳥取駅の「山陰鳥取かにめし」などがカラー写真で次々に紹介されている(本書の特徴はカラーの図版が多くてとても楽しく、かつお腹が減ること)。

 もっとも、本書は単にお弁当だけではなく、日本人の食と食文化にまできめ細かく言及していて、お腹だけではなく、頭の方もグーッと鳴ることになる。

 

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2020年7月 月刊「hanada」に寄稿したものです

「MMTによる令和「新」経済論 」 藤井 聡 著 を読む

 MMT(モダンマネタリーセオリー 現代貨幣理論)なるものをご存じだろうか? すでに二十世紀後半には体系化された正統的経済理論のひとつだが、その特異な理論で最近、注目を集めている。安倍政権で内閣官房参与を務めたこともある著者はこの理論に依拠しつつ、日本経済の復興案を提言している。 

  確かに、この理論、目からウロコが落ちるというか、キツネにつままれたようなというか、驚くべき見解が目白押しなのである。

  紙数の都合上、ほんの数例しか紹介できないが、例えば、「お金というものは人が人から借りることで生まれる」のだと言う。あなたが銀行に行って百万円借りるとする。あなたに信用があれば、たとえその銀行が無一文であったとしても、あなたの口座に百万円と書き込むことで貸し付けてくれる。あなたに貸し付けるという行為を通じて百万円という銀行預金を何もないところから生み出すのである。こうして生み出されるお金のことを「万年筆マネー」と呼び、実は、これは銀行が日常的に行っていることなのだと言う。

 そして、この理論の最も注目すべきところは、「政府は、自国通貨建ての国債で破綻することは、事実上あり得ない」と主張する点にある。

 なぜならば、貨幣とは中央政府中央銀行とで構成される「国家」が作り出すものであり、足りなくなれば作り出せばいいだけであって、手をこまねいて破綻してしまう国家などあるわけがないからである。言われてみれば、至極もっともな理屈ではある。さらに著者は、日本の財務省ですら、公式文書で「日・米など先進国の自国通貨建て国債のデフォルトは考えられない」と明確に述べていることまで教えてくれる。

 となると、これまでの日本の緊縮財政はいったい何だったのかと、首を傾げたくなるではないか。

 財務省は日本の借金(赤字国債)は1000兆円を超え、このままでは日本が破綻してしまうと危機感を煽った。これは国民一人当たり七百数十万円借金があるようなものだとまで言って脅してくれた。当の財務省は、デフォルトはあり得ないと言っているにもかかわらず、政府支出をしゃかりきになって抑制し、消費税の増税を繰り返してきた。そんなことでデフレから脱却できるわけがないではないかと、著者は悲憤慷慨するのである。「その結果として日本経済は疲弊し続け、賃金は下落し、国民の貧困化が加速した」と。確かに、2015年までの二十年間で日本のGDPはドル建て換算で20%縮小。断トツの世界最下位で、日本が唯一のマイナス成長国家なのである。成長率の世界平均はプラス139%。ちなみに中国はプラス1414%である。このままでは、日本は東アジアの一貧国に成り下がってしまうと著者は慨嘆する。

 その打開策はただひとつ。適度なインフレになるまで財政赤字を拡大すること。緊縮財政などやっている場合ではない。世の中に出回っているお金の総量が少ないのでデフレに陥っているのだから財政出動でもっと貨幣循環量を増やすことが必要なのだと、著者はきっぱり主張する。

 そして、この主張の直後に世界を襲ったのが、新型コロナウイルスだった。これで事態は一変。世界各国の中央銀行輪転機をフル稼働させて紙幣を刷りまくっている。日本も同様。緊縮財政はぶっ飛び、2020年度の第二次補正予算は32兆円に。これ、全部赤字国債建設国債で、目下、市中に前代未聞の量の札束が投下されている真っ最中なのである。さて一体日本経済はどうなるのか。本書を読みつつ見守っていただきたい。

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2020年7月 月刊「hanada」に寄稿したものです

「MMTによる令和「新」経済論 」 藤井 聡 著 を読む

 MMT(モダンマネタリーセオリー 現代貨幣理論)なるものをご存じだろうか? すでに二十世紀後半には体系化された正統的経済理論のひとつだが、その特異な理論で最近、注目を集めている。安倍政権で内閣官房参与を務めたこともある著者はこの理論に依拠しつつ、日本経済の復興案を提言している。 

  確かに、この理論、目からウロコが落ちるというか、キツネにつままれたようなというか、驚くべき見解が目白押しなのである。

  紙数の都合上、ほんの数例しか紹介できないが、例えば、「お金というものは人が人から借りることで生まれる」のだと言う。あなたが銀行に行って百万円借りるとする。あなたに信用があれば、たとえその銀行が無一文であったとしても、あなたの口座に百万円と書き込むことで貸し付けてくれる。あなたに貸し付けるという行為を通じて百万円という銀行預金を何もないところから生み出すのである。こうして生み出されるお金のことを「万年筆マネー」と呼び、実は、これは銀行が日常的に行っていることなのだと言う。

 そして、この理論の最も注目すべきところは、「政府は、自国通貨建ての国債で破綻することは、事実上あり得ない」と主張する点にある。

 なぜならば、貨幣とは中央政府中央銀行とで構成される「国家」が作り出すものであり、足りなくなれば作り出せばいいだけであって、手をこまねいて破綻してしまう国家などあるわけがないからである。言われてみれば、至極もっともな理屈ではある。さらに著者は、日本の財務省ですら、公式文書で「日・米など先進国の自国通貨建て国債のデフォルトは考えられない」と明確に述べていることまで教えてくれる。

 となると、これまでの日本の緊縮財政はいったい何だったのかと、首を傾げたくなるではないか。

 財務省は日本の借金(赤字国債)は1000兆円を超え、このままでは日本が破綻してしまうと危機感を煽った。これは国民一人当たり七百数十万円借金があるようなものだとまで言って脅してくれた。当の財務省は、デフォルトはあり得ないと言っているにもかかわらず、政府支出をしゃかりきになって抑制し、消費税の増税を繰り返してきた。そんなことでデフレから脱却できるわけがないではないかと、著者は悲憤慷慨するのである。「その結果として日本経済は疲弊し続け、賃金は下落し、国民の貧困化が加速した」と。確かに、2015年までの二十年間で日本のGDPはドル建て換算で20%縮小。断トツの世界最下位で、日本が唯一のマイナス成長国家なのである。成長率の世界平均はプラス139%。ちなみに中国はプラス1414%である。このままでは、日本は東アジアの一貧国に成り下がってしまうと著者は慨嘆する。

 その打開策はただひとつ。適度なインフレになるまで財政赤字を拡大すること。緊縮財政などやっている場合ではない。世の中に出回っているお金の総量が少ないのでデフレに陥っているのだから財政出動でもっと貨幣循環量を増やすことが必要なのだと、著者はきっぱり主張する。

 そして、この主張の直後に世界を襲ったのが、新型コロナウイルスだった。これで事態は一変。世界各国の中央銀行輪転機をフル稼働させて紙幣を刷りまくっている。日本も同様。緊縮財政はぶっ飛び、2020年度の第二次補正予算は32兆円に。これ、全部赤字国債建設国債で、目下、市中に前代未聞の量の札束が投下されている真っ最中なのである。さて一体日本経済はどうなるのか。本書を読みつつ見守っていただきたい。

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2020年7月 月刊「hanada」に寄稿したものです