路傍の意地

70歳目前オヤジの、叫びとささやき

勝谷誠彦の早すぎる死を悼む

 月刊HANADAに寄稿した追悼文だが、ここに残しておきたい。

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1982年初夏

 当時私は三〇歳で、月刊「文藝春秋」編集部に在籍し、毎日、編集部に大量に送られてくる郵便物に目を通す役目を負っていた。その中にブレーメンファイブと名乗る編集プロダクションからの封書があり、「仕事がしたい。一度会って話を聞いてほしい」と告げていた。今も昔もそうだが、会いたいという人には必ず会うことにしていた。

 約束の日にやってきたのは、ちょっと小太りの青年で、まったく似合っていないティアドロップのサングラスをかけ、大きな黒い鞄を下げていた。文藝春秋本社の一階にあるサロンに案内すると、青年は三尋狂人と名乗り、早稲田の学生だが編集プロダクションを主宰していること、様々な記事を企画、執筆していることを告げた。「で、いったいどんな記事をご執筆なさっているんですか?」と尋ねると、青年は、一瞬困ったような表情を浮かべたのち、意を決したように、大きな鞄から雑誌を取り出した。エロ本だった。人目をはばかるその雑誌のページを広げ、この記事がそうだと指さした。

    私は、これは困ったことになったぞ、と思った。私の困惑の表情を読み取ったのか、「いや、他にもこんな記事がある」「あんな記事がある」と次々と手がけた雑誌をテーブルの上に積み上げたが、ぜーんぶエロ本だった。私は困惑した。サロンの女性や、他の来客に目撃されたくない。他人の視線をさえぎろうと体を雑誌の上にかぶせるようにしながら「三尋さん、『文藝春秋』にはこの手の記事は載せられないんですよ……」

   青年の顔は汗ばんで、大きなサングラスが決して起伏が豊かとはいいがたい顔面から滑り落ちそうなり、その度に指で持ち上げた。「そ、そうですか」。青年はテーブルに積み上げたエロ本を鞄にしまうと、あたふたと立ち去って行った。

それが勝谷誠彦との初めての出会いだった。

 

1985年春

 6月に創刊される新雑誌「エンマ」編集部に異動となった。編集部に行くと新入社員も配属されていたが、そこに勝谷誠彦がいた。

「あれー、お前はエロ本を積み上げた……」。勝谷は「それだけは言うてくださるな」というように両手でなだめるようなしぐさをし、入社の経緯を説明し始めた。初めて文春のサロンに入ったときにすぐに場違いな会社に来たことを悟った。汗を拭きながら、こけつまろびつ文春の玄関を出た後に、卒業したらこの会社に入ろうと決意したのだという。

 雑誌が創刊になると当然ながら、新人らしからぬ活躍を見せるようになった。なにしろ一緒に歌舞伎町を歩くと風俗店の呼び込みが挨拶してくるほどの斯界への食い込み具合だったので、出す企画出す企画その手のものが圧倒的に多かったのである。とはいえ、文章力は新人離れしていた。このころだったと思うが、勝谷が学生時代に書いたという小説を読まされた。「帝都には雪が降っていた」(というような)書き出しの美文の小説で、ああ、勝谷は繊細な感受性の持ち主なのだなあ、と認識を新たにした記憶がある。

 勝谷は毎日飛び回っていたが、8月には、たまたま新幹線を利用したがために日航機墜落の難を逃れて九死に一生を得、11月には阪神優勝のテレビ中継を見ながら嗚咽していた。   

勝谷が書いている。

〈編集部の、テレビがある別室にほぼスタッフ全員が顔をそろえた。ヤクルト・角のピッチャーゴロをつかんだ中西が、一塁へ送球する。ガッチリとつかむ渡真利。やった! 阪神優勝だ。宙を舞う吉田監督の姿が不覚にもみるみるにじんでいく。

「あっ、勝谷、泣いてら」

 巨人ファン西川氏のあざけりの言葉もものかは、あとは涙、涙……。思えば尼崎市立七松小学校4年生の時、がき大将怖さに野球のルールも知らぬまま阪神ファンになって以来、苦節20年。先号の阪神特集ではライト・スタンドで撮影中に同志ファンにボコボコに殴られながらも守り通した男の操。今こそ天も泣け地も吠えよ。その夜はひとり飲み明かしつつ、次の21年間の新たな被虐への期待に心ときめいた。〉

 翌年の正月には岸和田に住む弟を借り出してクルマの運転をさせ、清原和博の墓参同行取材をこなしたりしている。

   編集者の仕事は楽しかったに違いない。

 

1986年夏

「エンマ」の表紙担当だった私は、次回の撮影に勝谷を連れていくことにした。

「勝谷、次の表紙はアイドルの森尾由美ちゃんだ。撮影は三好和義。撮影場所は群馬県法師温泉にある老舗旅館に決めた」

「三好さんて、あの楽園の三好さんが温泉で女の子を撮るんですか?」

「そう」

「なんで温泉なんですか?」

「なんでって、森尾由美ちゃんが温泉につかっているところをお前は見たくないのか?」

 かくして撮影スタッフは一路法師温泉へ。

   撮影当日。人気のない温泉場で、三好カメラマンとアシスタントは準備よろしく海パン一丁となり、森尾由美ちゃんは肌色の水着を着用、私と勝谷は素っ裸になり、腰に大きなバスタオルを巻いた。三好カメラマンは大きな三脚をセットし、ヘアメイクの女性は由美ちゃんにナチュラルメイクを施す。私と勝谷は撮影場所を決め、レフ板の準備に怠りない。

    撮影が始まる。私は「由美ちゃん、もっと肩を出して」とか、「タオルを右手で持って」とか、あれこれ指示を出しながら温泉場を駆け巡っていた。

    そうこうするうちに、腰に巻いた大きなバスタオルはお湯を含み、とてつもなく重くなってきた。まずいぞ、これはと思った瞬間、ポタリと下に落ちてしまったのである。

「!」三好カメラマンも森尾由美ちゃんもヘアメイクやマネジャーの女性も一瞬息を飲んだ、ような気がした。しかしもはやどうすることもできない。バスタオルは重くなって腰に巻くことなどとてもできない。ええい、ままよ。ここは温泉場だ。裸でもいいじゃないかと開き直り、以後素っ裸で仕事をすることにした。

「勝谷、お前もバスタオルを取れ」

「え、取るんですか」

「取れ取れ。おれだけ裸っていうのはおかしいだろう」

 それから小一時間、私と勝谷は素っ裸で森尾由美ちゃんの目前を右往左往することとなった。

 

1991年1月

  多国籍軍によるイラク空爆によって湾岸戦争が勃発した。その時、私は「週刊文春」のグラビア班デスクでここでも勝谷が部下だった。勝谷はカメラマンの宮嶋茂樹湾岸戦争取材に行きたいと強く主張した。

「そんなこと言うけど、勝谷、お前、英語喋れるのか?」

「……」

 灘高校は出てるけど、英語はからきしダメなようだ、というのが編集部における勝谷の風評だった。が、その鼻息に押し切られ、結局、ゴーサインを出すこととなった。この時、宮嶋は単行本一冊分くらいの分厚い遺書を私に手渡して「何かあったら親に渡してください」と神妙な顔をしていたのが思い出される

 二人は中東の地に降り立ったものの、案の定、イラク国内に入ることもできず、おまけにアラビア語は読めないし英語も不自由なせいで、戦況そのものさえ十分に把握できなくなっていた。仕方がないので私は毎日毎日、日本の新聞をコピーし、FAXで送っていた。

「なんか違うくない?」と思いながら。

 そんなある日、宮嶋から国際電話が入った。

 ヨルダンの首都アンマンからだった。宮嶋の声が妙に暗い。聞けば、戦場に入ることができずにいらだった勝谷は小舟をチャーターして海を渡りサウジアラビアに入る画策をしているというのである。サウジからなんとか国境を突破してイラクに入るのだと言ってきかないらしい。「でも、海には機雷がプカプカしてるんですわ」。明らかに宮嶋は腰が引けていた。言外に何とか勝谷を思いとどまらせてほしいという空気が漂っている。しかしこのまま何の成果もなくおめおめと帰国するのは二人のプライドが許すまい。そこで私は考えた。

 この時のやり取りを勝谷は「週刊文春」のグラビアの記事に軽妙にまとめている。

〈電話が特徴的な音を発した。地上戦開始直後のヨルダンの首都・アンマン。深夜二時。前線入りを阻まれていた私たちは、ヨルダンからイラク国境を突破して入るという方針を決めたばかりだった。ルート工作も車の手配も終えた。イラク国内で逮捕されれば、過酷な運命が待っていることは間違いない。しかし、私たちはその可能性に掛け、東京に意見具申した。この電話はそれへの回答に違いない。

「もしもーし、東京のニシカワですがあ、あのねえ、イラクへ入るっていうの、あれ危ないからやめよ。それよりね、そっちにいいオンナいるでしょ。え? ナニって、オンナよオンナ。湾岸美女図鑑っていけると思わん?」

 従順な前線兵士として、私たちは命令に従った。しかし、それはバグダッドへ向かうよりはるかに厳しい道だった。ロイターやAPの端末が吐き出すニュースに真剣に見入る世界中のジャーナリストたち。情報省の役人には次々と真摯な取材のアレンジ申し込みが寄せられる。回りに他のマスコミがいない時を見計らって、私たちはおずおずと切り出した。「あのお、モデルさんとか、女優さんとか紹介してくれへんやろか?」役人はしばらく意図をはかりかねるようにこちらの顔を注視する。町中で女性の姿をとることさえ難しい、イスラムの国だ。役人は鼻下の髭を震わせて怒鳴った。

「とっとと失せろ! 前線でお前たちを見かけたらぶち殺してやる」

 かくして湾岸諸国を股にかけた美女探索の苦難の道は始まった。〉(91年4月4日号「祝停戦 原色美女図鑑 湾岸スペシャル」)

 人をおちょくる文章を書かせると勝谷は天下一品だった。

 

 勝谷のことを語るに、宮嶋茂樹カメラマンとの名コンビについて触れないわけにはいかない。宮嶋はなぜか自衛隊が大好物で数々の「自衛隊物」をものしたが、「週刊文春」誌上で大々的に自衛隊を取り上げたのは91年6月の「ペルシャ湾をゆく自衛隊掃海艇同乗記 機雷モ見エズ雲モナク」だった。宮嶋は取材から帰国するや厚さ2センチほどの原稿を自ら書き上げ写真とともにデスクの机のうえに置いた。あまりの分量の多さに編集者たちはみんな担当になることを尻り込みしたが、ひとり勝谷だけは喜んでリライトを引き受けた。勝谷は大いに楽しみながら原稿を書いている。こんな具合である。

〈機雷も見えず雲もなく、何も起こらず波立たず。鏡のごときペルシャ湾、今日もゆくゆく自衛艦。賛否の海を乗り越えて、はるばる来けり三千里。機雷の一つも始末せにゃ、どんな顔して帰らりょか。夜明けに早くも三十度、昼の灼熱四十度。冷房もなき掃海艇、こんな苦労をだれが知る。お国のマスコミ乗せてみりゃ、妙なアングル撮りまくる。国へ帰るは三月のち、その評判が気にかかる。天に入られぬ亡霊か、地に住みかねる鬼っ子か。声を絞りて我は問う、「まだかわらずや憲法は」〉

 この調子でまだまだ続くのだが、それはよく読むと、自衛隊を賛美しているのかおちょくっているのかよく分からない微妙な記事で、掲載誌が世に出ると、自衛隊と悶着が起きた。

 が、そんなことにめげる勝谷・宮嶋コンビではなかった。

「PKOカンボジア海上輸送部隊 17日間完全密着同行取材! 絶望の船酔い日記」(92年10月29日号)

カンボジアの掘立小屋で19日 宮嶋カメラマンPKOムカデ戦記」(93年1月28日号)

モザンビークPKO同行底抜け脱線レポート 不肖宮嶋のカメレオン戦記」(94年2月10日号)

 やはり毎回、自衛隊とはなんらかの悶着が起きたが、勝谷は楽しそうだった。

宮嶋カメラマンに「不肖宮嶋」の名を冠したのも勝谷だった。初出は93年の「ムカデ戦記」だが、その時私は宮嶋カメラマンのマスコットネームを前谷惟光の「ロボット三等兵」にならって「宮嶋三等兵」にしようとしていたらしい。そこに勝谷が割って入って、「いや、不肖宮嶋がいい」と主張、勝谷誠彦こそ、いまでは多くの人が知っている「不肖宮嶋」の生みの親なのである。

 

1996年2月

 1985年に文藝春秋に入社後、勝谷は「エンマ」「文藝春秋」週刊文春」「マルコポーロ」「文春文庫部」と異動を重ね、96年2月に依願退職した。

在職中は上司・花田紀凱にその異才を認められ、大いにかわいがられたものだったが、その花田が「マルコポーロ事件」の責任を取るようにして96年に退社すると、まるでそのあとを追うように勝谷も退職した。つまらなかったのだろう。

 その後の勝谷の活躍は世間の人が知るとおりである。勝谷の書くエッセイを雑誌で見かけたときなど、ああ元気でやっているのだなと遠くから眺めていた。ときどきテレビで目にする勝谷は、目を三角にし、まるで今にも相手に噛みつきそうな様子で何事かを激しく主張していた。私が知っている、温顔でふっくらした勝谷はもはやそこにはいなかった。繊細で傷つきやすい精神をまるでガードするように強固な鎧をまとっているようにさえ見えた。

 問わず語りに勝谷が聞かせてくれた身の上話を思い出すと、すこし笑いそうになる。

「子供のころ、母親に強いられてクラシックバレエを習いにいっていた」

「灘高では、授業についていけなくなって、授業中校庭で遊んでいるように言われた」

「大学進学の際、担任に青山学院大学文学部に行きたいといったら、頼むからやめてくれと止められた」

「どうしても医学部に行きたくて、ある医学部は作文だけだというので、作文なら自信があったので受けに行った。しかし、設問を見ると長たらしい化学式が記されていて、これについて記せ、というもの。結局一行も書けず、終了のベルが鳴るまで地獄のような苦しみだった」

 勝谷はこんな話を面白おかしく聞かせてくれる部下だった。

 

2018年11月29日

 その日は、すでに初冬だというのにコートも必要ないくらいに温かい陽気だった。尼崎の葬祭場の前庭に止まった霊柩車に勝谷の棺が運ばれていく。近所の住民と思しき人たちも何人か路上で勝谷を見送ろうとたたずんでいる。

 関西では勝谷は有名人だった。尼崎駅前の喫茶店に入っても、タクシーに乗っても、「勝谷さんのお葬式ですか」と尋ねられた。

 8月に勝谷が劇症肝炎で病院に担ぎ込まれたという報を目にして驚いた。文藝春秋にいた頃は、そんなに酒を飲んでいる印象はなかった。しかし、6月にあるパーティで会った時には確かに勝谷は呂律がまわっていない感じだったのだ。あとから知らされたことだが、四六時中酒を飲み続けていたという。病院では集中治療室に入れられ、生死が危ぶまれる状態だとも聞かされた。

 しかし闘病の後、奇跡的な生還をとげ、9月に文春時代の同僚だった柳澤健が安否を気遣うメールを送るとこんな返事が返ってきた。

〈一滴も酒はこれから呑まないので(しかも、黙ってそうする)、何かうまいものでも食べに行きましょう。最初は今日明日で、と別れた妻や海外に出発する直前の娘まで枕頭に呼ばれたのに、なぜか生き延びました。

 ガン、静脈瘤、肝硬変と「あるはずのものがない」ごとに医師たちが「おかしいなあ」と首をひねっているのがおかしくて。

 何を食いにいきましょうか。西川さんと花田さん、誘うと楽しそうだな。〉

 

 しかし勝谷はその後病院を転々とし、ついに好転することはなかった。病院のベッドの下からウイスキーの瓶が何本も出てきたと聞かされた時には言葉を失った。

 若き日に作家を目指した、繊細な感受性を持った男は、アルコールの力を借りなければ生き馬の目を抜くメディアの世界で正気を保っていられなかったのだろうか。

 

 霊柩車が長くクラクションを鳴らし、勝谷が幼少期を過ごした尼崎の街に響き渡る。車が静かに動き出した。隣には花田さんと柳澤が立って勝谷を見送っている。すこし離れた柱の陰にいる不肖宮嶋を見ると顔歪めて嗚咽している――。

 

 勝谷――、花田さんや柳澤と、そうだ、宮嶋も誘ってみんなで一緒に飯を食いに行きたかったなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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1985年ころ。六本木の路上にて。