路傍の意地

70歳目前オヤジの、叫びとささやき

「無」について

 週末によく「サミット」に買い物に出かける。そこで、たまたま、「無洗米」と表示されたお米を見かけた。それが、どういうものであるのかは、新聞か何かで読んで知っていた。米を研ぐ必要がなく、水を入れてそのまま炊くことができる簡便な米である。横着な世の中になったものだと、実にオヤジくさい反応がまず、わが頭に去来した。

    昔は、米を器に入れ、冷たい水で静かに研ぐ。数回研いで、白濁が少なくなってきたら、洗った米を炊飯器に入れ、水を適量加えて、しばし寝かせた後に、スイッチ・オン。何回研ぐか、どうやって研ぐかは、米の種類や季節によっても変わる。経験が、うまい飯を生み出してきたのである。

    しかし、もはや、その余地はない。水を加え、スイッチ・ポンである。そのうちに、「乳がでないので米の研ぎ汁を赤ん坊に飲ませた」なんていう文章が、いったい何を言っているのか分からない時代がやってくるだろう。それも時代の趨勢だろうから、嘆き悲しむことではないのかもしれない。すこし、残念な気がするが、炊事の手間が省けてめでたしめでたしと思うべきなのだろう。

    さて、その次にわが薄い頭に去来したのは、「無洗米」という言葉はなんだか、妙な感じがする、ということだった。漢字の「無」は、「ない」を意味する。

「無学」とは、学問が「無い」ことだし、「無免許運転」は免許を「持っていない」のに運転すること、「無銭飲食」はお金が「無い」のに飲み食いすること。「無謀運転」は、ちゃんとした考えも「無し」に運転することである。そう考えると「無洗米」は、「洗浄の無い」米、つまり、「洗っていない米」のことを言うのではなかろうか。「無洗」には、「洗う必要がない」という意味は無いと思う。

    もし、既に洗ってあって、洗う必要がない米のことを言いたいのであれば、「既洗米」か「洗不要米」と呼ぶべきではないのか、うん、絶対そうだ、とレジでお金を払いながら、ぶつぶつと呟いてしまうのだった。(2008年1月記)