路傍の意地

70歳目前オヤジの、叫びとささやき

あんた、何者?

    文春新書から出ている、内田樹氏の「寝ながら学べる構造主義」を読んでいると、いかに自分の頭が悪いかが、しみじみと分かって楽しい。


 ほとんどマゾのような気分にさえなってくる。足の指が痒いのに、ブーツを履いているために、かくこともままならず、そのまま我慢し続けなくてはならないような、胃袋の上のほうがジワーっと熱くなってくるような妙な感覚である。


 この薄っぺたい新書には構造主義を代表する何人かのフランス人学者が濃縮コンクで詰め込まれている。彼らの言説のいくつかが引用されているが、情けないことに読んでいるといらいらしてくるのである。
 どうしてフランス人の学者というのは、こんなに分かりにくいことを分かりにくく書くのであろうか。何かうらみでもあるのか、この野郎、と怒鳴りつけたくなってくるのである。もし許されるなら、ここに登場する哲学者、ソシュールフーコー、バルト、レヴィ=ストロースラカンを横一列に並べて、「歯を食いしばれ、この野郎!」と怒鳴りつけて、往復びんたをくらわせたい、という野生な衝動が湧き上がってさえくるのである。


 おそらく、彼らは、自身が主張する事柄を万人に分かってもらおうという気持ちはさらさらないに違いない。むしろ、万人に分かってもらえるように書くことによって損なわれてしまう繊細な思考、とでもいうものがあると確信しているに違いない。そうとしか思えない。理解できる人間だけに理解してもらえればよい。


 もっというと、難解に書くことによって、読者を選定している、のかもしれない。1次予選、2次予選、準決勝を勝ち残った者だけが決勝戦に出場可能。足切りをした後に、有力者同士で、頭脳の勝負をしようじゃないか、と。


 前置きはこのくらいにして、内田氏の本から難解ぶりを抽出してみよう。前後の脈絡なく引用するので、ますます分からなくなっているのが、実に楽しい。
 内田氏はソシュール構造主義の始祖と位置づけ、その後に、構造主義四銃士が居並ぶ。その最初の銃士、ミッシェル・フーコーから。


<17世紀になって、狂気はいわば非神聖化される。(略)狂気に対する新しい感受性が生まれたのである。宗教的ではなく社会的な感受性が。狂人が中世の人々の風景の中にしっくりなじんでいたのは、狂人が別世界から到来するものだったからである。いま、狂人は都市における個人の位置づけにかかわる「統治」の問題として前景化する。かつて狂人は別世界から到来するものとして歓待された。いま、狂人はこの世界に属する貧民、窮民、浮浪者の中に算入されるがゆえに排除される。>(「狂気の歴史」)
 まあ、なんとなくはわかりますわね、まだ。「かつて狂人は神聖視されていたけれど、17世紀になって、社会的に認めがたい人として排除されるようになった」ということでしょ。そう書けばいいのにねえ。


 次、ロラン・バルト君、前へ。
<テクストはさまざまな文化的出自をもつ多様なエクリチュールによって構成されている。そのエクリチュールたちは対話をかわし、模倣し合い、いがみ合う。しかし、この多様性が収斂する場がある。その場とは、これまで信じられてきたように作者ではない。読者である。(略)テクストの統一性はその起源にではなく、その宛先のうちにある。(略)読者の誕生は作者の死によって贖われなければならない。>(「作者の死」)
  これも、なんとなくしか分からないでしょ。「言葉や文章というものは、それを発した人がそこに、どんな意味をこめたかということよりも、受け手がどう受けとめたかによって、意味が決まってくる」というようなことなんでしょうか? ほーら、ちょっといらいらしてきたでしょ。


 お次は、クロード・レヴィ=ストロース君。
<彼らのうちであれ、私たちのうちであれ、人間性のすべては、人間の取りうるさまざまな歴史的あるいは地理的な存在様態のうちのただ一つのもののうちに集約されていると信じ込むためには、かなりの自己中心性と愚鈍さが必要だろう。私は曇りない目でものを見ているという手前勝手な前提から出発するものは、もはやそこから踏み出すことができない。>(「野生の思考」)
 さあ、これは、なんと言っているのでしょうか? たぶん、「人間性というものは、時代が違い、場所が違えば、まったく異なったものなのであって、これが人間性というものなのだと指し示すことのできる唯一のものはない」ということなんでしょうかねえ。またしても、いらいらしてきませんか。


 さてどん尻に控えしは、泣く子も黙るジャック・ラカン様の登場です。
<まだ動き回ることができず、栄養摂取も他人に依存している幼児的=ことばを語らない段階にいる子どもは、おのれの鏡像を喜悦とともに引き受ける。それゆえ、この現象は私たちの眼には、範例的なしかたで、象徴作用の原型を示しているもののように見えるのである。というのは、「私」はこのとき、その始原的な型の中にいわば身を投じるわけだが、それは他者との同一化の弁証法を通じて「私」が自己を対象化することにも、言語の習得によって「私」が普遍的なものを介して主体としての「私」の機能を回復することにも先行しているからである。>(「私の機能を形成するものとしての鏡像段階」)
 ははは、は。もう、笑うしかないでしょ。こんなことをいっているのかなあ、と想像するのもいやになるくらい、無茶苦茶ですね。筆者の内田氏も、「特にラカンは、正直に言って、何を言っているのかまったく理解できない箇所を大量に含んでいます。」(167ページ)
 そんなに分からない箇所が多いのに、どうしてこの人が構造主義に多大に貢献したということがわかるのであろうか。そこが不思議である。羅漢様、恐るべしである。


 さて、ところで。ある冬の日の夕刻。
青山通りを歩いていた私は、腹がすいたので、表参道近くのラーメン屋に入った。カウンター中心の、安っぽいラーメン屋である。初めて入った店では、その実力のほどが分からないので、いつも、普通のラーメンを頼むことにしているのだが、その日もそうだった。
 と、時を同じくして入ってきた50前後のオヤジがいて、アスパラガスのにんにく炒めと炒飯とビールを注文。ビールをコップに注ぎ、すぐに出てきたアスパラを肴に、旨そうにやっている。ふと見ると、左手に本を持ち、ビールをぐびぐびやりながら、熟読しているのである。このおっさん、ラーメン屋で何を読んでいるんだろうと気になってよーく見ると、洋書である。さらに目を凝らすと、Jacques Lacan と書かれているではないか。
 ビール片手に、アスパラかじりながら、フランス語の原書でラカンを読むとは、「あんた、何者!」と思わず、声をかけそうになった。東京は広い。すごい人がいるもんだと、つくづく思った。
 それにしても、何者であろうか。大学の先生? 翻訳家?
精神科医? いや、そんな勤勉な医者はいないだろうから、先生かね、やっぱり。

(2008年2月記)