路傍の意地

70歳目前オヤジの、叫びとささやき

金達寿著「日本の中の朝鮮文化」を読む

 かねてより、おかしいな、おかしいなと思い続けていた。 

   週末、自家用車を運転して、関東のあちこちのゴルフ場に行く機会が多いのだけれど、郊外の、その地名標識を眺めながら、「これって、どう考えても日本語じゃないよなあ」と思うことが結構多かったのである。 

  たとえば埼玉県にある嵐山GCに行くときには、東松山でICを下りて、新郷を左折、唐子、上唐子を曲がるのだが、「唐子」というのはどう考えても日本の地名ではない。というか、この地名が生まれた時に、この地域は、明らかに半島や大陸から訪れた人々の居住地域だったに違いない、と思われるのである。

   あるいは、五日市CCに行く際には、「あきるの市」を通過する。この「あきるの」というのも絶対に日本語ではない、と思った。住居表示は平仮名で「あきるの」だが、近くにある神社は「阿伎留神社」と表記する。音を聞くだけで、日本語じゃないなあ、と思わざるをえない。

   あるいは、千葉で「酒々井」という地名が「しすい」と発音するのだと知って、これも日本語としては奇異な読み方だと直感した。

   しかし、関東圏のこんな田舎に渡来人が住んでいた、というのも妙な話であるなあとも思い、自分のそんな推測を打ち消し、以後そう考えたことさえもすっかり忘れていた。 

  ところが最近、古本屋さんで「日本の中の朝鮮文化」(金達寿著 講談社 昭和45年刊)という本を見つけて読んだところ、先に書いた自分の直感が正しかったことを知って驚いた。しかも同書には「唐子」「あきるの」の地名が半島からの渡来人の居住地域であったと明言されているのである。たとえば埼玉県の「唐子」については、

 <(・・・・・)河田楨『武蔵野の歴史』にこう書かれている。唐子という地名は七世紀に遡る帰化人の末に関係があり、朝鮮式の横穴古墳の存在もある。 

  そしてこの唐子付近には、須恵器(朝鮮式土器)と関係のある須恵や今宿というところもあるが、東松山には新漢(いまきのあや)の高貴を祀ったものといわれる高負古(たかふこ)神社があり、またここには、若いハイカーたちのあいだも有名なものとなっている古墳群の吉見百穴がある。>(P125)

 

  また「あきるの」に関しては、

 

<(・・・・・・)須田重信『関東の史蹟と民族』にこんなことがみえる。

   狭山の西南方面、多摩川から秋川が分かれるあたりを秋留(アキル)と称し、その西方五日市町の松原ケ谷戸に阿伎留(アキル)神社がある。延喜式の古社である。大物主神を祀る。アキルは朝鮮語で解すれば前の路となる。当時の武蔵府への前の路とも伝えるし、陸奥(ミチノク)即ち路の奥に対して「前の路」なる造語も許される訳である。>(P126)

  この「日本の中の朝鮮文化」という本は、金氏が独自に行った学術的調査を書物にまとめあげたものではなく、その手の本や資料を縦横に渉猟しつつ、関東に存在する、半島からの渡来人ゆかりの地を、氏が自らの足で訪ね歩くという紀行文の体裁をとっている。そういうわけで、やたらに引用の多い、というか、肝心の部分はすべて引用、という形の書物となっている。

  だから、先に引用した文章もほとんどが引用、つまり引用の引用というややこしいことになってしまっているが、そのことに慣れてしまうと、同書のなかには驚くべき知見があちらこちらにちりばめられている。「えっ? そんなこと、日本史の授業で習わなかったよ」というような。そんな一節をランダムに拾ってみるとこうなる。

 

<「朝鮮帰化人の移住が盛んに行われ」たのは当時の埼玉郡のみでなく、武蔵の一部である現在の東京や、他の関東地方も同様であったが、日本の歴史文献によって主なものをひろってみると、こういう具合である。

  まず、『続日本紀』の716年、霊亀2年5月条のいわゆる1799人の高麗人についてはさきにみたとおり(「甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の高麗人1799人を以って武蔵国に遷し始めて高麗郡を置く」)であるが、ついで、というより、すでにそれ以前、『日本書紀』666年の天智5年に、それまでは大和で「官食を給していた百済の僧俗2千人余人を東国に移した」とある。(・・・・・)ついで758年の天平宝字2年8月には「帰化新羅僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国の閑地に移し個々に初めて新羅郡を置く」とある。>(P62)

 

<(狛江古墳の中でもとくに大きい「亀塚」の発掘調査では、明らかに半島文化の影響を認めることができる) どころか、それは古代朝鮮文化そのものであったと私は思うのであるが、そうして武蔵(東京都・埼玉県)全体についてみるならば、南部のこちらからは、「調布」「砧」「染地」などの地名にもみられる繊維の生産がおこるとともに、この武蔵野一帯はのちしだいに馬の放牧もさかんとなった(・・・・・)。

  中島利一郎『日本地名学研究』によると、東京の世田谷や早稲田にある弦巻や鶴巻にしても、本来はその表記の漢字とは関係なく、これらはいずれも朝鮮語ドル(原野)牧、すなわち馬の放牧地であったということからきたものであるといわれる。馬を、日本語では駒(こま・高麗)といっていたことからもわかるように、この馬もまた朝鮮渡来人のもたらしたものである(・・・・・)。>(P100)

 

<日本各地いたるところにある新羅神社だの百済神社、それからまた韓国神社、許麻(こま・高麗)神社などというのも(渡来人が日本各地に群居した・・・・・)結果で、これらがいまだにそうした朝鮮の名称をのこしているのは、彼らがいかにこの地にたくさんつくったかということの証左でもある。>(P104)

 

<武蔵(東京都・埼玉県)ということがそれの産地であった苧(からむし・韓モシ)という麻の種子、すなわちモシ・シからきたとする須田重信『関東の史蹟と民族』にはこうある。

  ムサシのムサの地名は関東には外にもある。先づ上総の国には武射郡があり、すでにこれは郡名となっている。尚ほ山辺郡の郷名に武射がある。更に関東には麻に関係した地名は中々多い。(此処で一寸説明しておくが上総、下総のフサは麻の古語である)即ち麻羽、麻布、麻績、麻生等々である。>(P194)

 

  あまり長々と引用ばかりしていてもきりがないからこのくらいでやめるが、同書を読むと、関東には古代より半島からの渡来人が多く住み着いたため、地名、神社名、人名に朝鮮由来のものが驚くほど多く存在していることがわかる。初めて教えられることも数多い(日本の義務教育ではなかなかここまで詳しくは教えてくれないので)が、その中でも、<だいたいそもそも、尾崎喜左雄氏のいうように、「古墳自体がその成立は朝鮮の文化によっているのである(・・・・・)」>(P198)というくだりには目から鱗が落ちた。

 

  ええ、そうだったの? 古墳というのは日本の天皇のお墓だとばかり思っていたのに、そもそも古墳という墳墓自体が朝鮮文化の産物であり、そこに眠っているのはほとんどが朝鮮から渡来した王族なのである、というのである。知らなかった。考古学的には現在どのような定説が主流となっているのか知らないが、なるほど日本のの文科省はそのあたりのことを積極的には教えたがらない理由もなんとなく分かる。

 

  古代、自分が大陸や朝鮮半島に住んでいたとする。もちろん紀元前、昔々の大昔である。その時、飢饉や戦乱など、不測の事態が出来してその地に留まることができなくなったときどうするか。敵が押し寄せてきて、どこかに逃れなくてはならなくなったらどうするか。そんな切羽詰った状況に置かれれば、おそらくは家族を引き連れて、成功するかどうか分からない、エキソダスを試みるだろう。

 

  船に乗って、はるか南に大きく広がる島に逃げるであろう。もちろんその頃にはその島に日本列島という呼称もなければ、人さえろくに住んでいなかっただろう。海に隔てられたかの島は逃亡先としては最適だったに違いない。大陸や半島だけではない。南の島々からも流れ着いた人々もいただろう。

 

  いってみれば大昔の日本列島は、東南アジアの吹き溜まり、避難民のアジールだったのではあるまいか。つまり渡来人が渡ってきたのはなにも西暦5,6世紀だけのことではなく、先史時代から次々とあちらこちらから渡来人がやってきていたのではないか、という感想をこの本を読むと持たざるを得ない。

 

  極論すれば、現在日本人と呼ばれる人はすべて渡来人である。1万年前に来て住み着いた渡来人の末裔もいれば、1500年ほど前に渡ってきた渡来人の末裔もいる。そのすべては遺伝子的にシャッフルされてもはや出自は分からぬようになってしまっているが、どの人もこの人も、早く来たか遅く来たかの違いだけで、すべて渡来人なのではないか。

 

  通勤の電車の中で前のシートに座る見ず知らずの乗客の顔をつくづくと眺めると、我々は全員が「日本人」だと思い込み、これは日本人の容貌をしている、と無根拠に納得しがちだが、よくよく顔を見つめてみると、そこにははなはだしいバリエーションがある。朝青龍のような顔もあれば、金正日みたいな顔もある。ペヨンジュンみたいな顔もあれば林家ペーみたいな顔も、あるいは玉木宏みたいな顔の人もいる。日本人として、とてもひとくくりにはできない多様性があるように思う。それも我が国の位置が、東南アジアの吹き溜まりなればこそなのではないかと思わないわけにいかない。

 

  同書には、しばしば「朝鮮からやってきた帰化人が・・・」という表記が見られるが、この「帰化人」という言葉にも違和感を覚えざるを得ない。我々が理解する「帰化」とは「日本国籍でない人が日本国籍を取得すること」である。しかし、その意味で、当時の渡来人たちは「これから日本人になろう」と決意したのだろうか、という疑問は残る。だって、まわりじゅう渡来人だらけで、確かにずいぶんと早く来た人もいるので言葉が通じなかったりしたこともあっただろうが、全く違う国に紛れ込んでしまったという感覚は少なかっただろうと思うからだ。

 

高句麗百済馬韓の発展したもの)、新羅辰韓の発展したもので、のち弁韓の駕洛・加羅をあわす)といった朝鮮の三国時代が形成されることになるのは、1世紀のはじめごろであるが、7世紀の668年にいたって南方の新羅がこれを一つに統一した。その過程をつうじてすでに多くのものが日本に来ているけれども、のち百済とともに高句麗が亡び、遺民の多くは地つづきであった満州へ入って渤海国を打ちたてることになる。が、その一部はまた海を渡ってこの日本へやって来たものであった。>(P33)

 

  私が、赤坂の韓国クラブへ行くと、ホステスからいきなり韓国語で喋りかけられ、「いやいや、私は韓国語が分からないですから・・・」と制止しても、「なにしらばっくれてるのよ。顔観りゃわかるわよ」とあくまで韓国人として遇されるその理由も、80歳になる母親が、どうみても韓国映画に出てくるおばあちゃんにそっくりなのも、親戚のおじさんがチョーヨンピルに似ているその理由も、きっとそういうことなのだろうと、深く理解できてしまうのである。