路傍の意地

70歳目前オヤジの、叫びとささやき

大久保千広さんの写真集で思い出す 「週刊文春」での熱い日々

 

 奈良県桜井市に住むフリーカメラマンの大久保千広さんは、昭和23年、三重県生まれ。27歳の頃に報道カメラマンの仕事をスタートし、数年前に現役を引退した。

 現役時代に撮影した何枚かの写真を、たまたま知人の新聞記者に見せたところ、「こんな貴重な写真を一人で温存してるなんて文化的罪悪ですよ」と叱咤され、写真展の開催を思い立った。写真展のタイトルは<あの顔、あの時代。 昭和から平成を撮る。週刊文春グラビアとの三十五年>。

 そのタイトル通り、大久保さんは関西を本拠地にして、週刊文春の写真ページを三十五年の長きにわたって撮影し続けてきた。その内容は実に多岐にわたる。ちょっとかいつまんで紹介してみると、昭和60年の阪神優勝日航機墜落事故生存者取材から、阪神淡路大震災和歌山毒カレー事件、神戸児童連続殺人事件、阪神野村監督大騒動、橋下徹知事・市長選挙などなど。大久保さんは、西日本の大きな事件や事故の現場や記者会見には必ず足を運んでいたのである。

「写真展で写真を見た人たちが、『ああ、あの時はこうだった、ああだった』と懐かしそうに話を始めるんですよ。自分の人生と写真に切りとられた時間とを重ね合わせて写真を見ている。ああ、これも写真のチカラなんだなあと思い知らされました」(大久保千広さん)

 そんなことがきっかけとなって、今回の「写真集 あの顔、あの時代。」(青心社刊)の出版となったのだが、そのページを繰りながら、筆者もまた何とも言えぬ懐かしい気持ちに浸らされた。

 というのも、今から31年前の1989年、筆者は週刊文春グラビア班のデスクになり(時の週刊文春編集長は花田紀凱氏)、以来足掛け6年、大久保さんと多くの仕事をしてきたからである。

  この時期の週刊文春グラビア班は、編集者もカメラマンも実に多士済々であった。編集者としては勝谷誠彦(後に退社して著述業に従事しつつ、多くのテレビ番組に出演。兵庫県知事選に出馬するも落選。18年逝去)や柳澤健(後に退社してノンフィクション作家に)、菊地武顕(現在は週刊朝日に)らがおり、カメラマンには不肖・宮嶋こと宮嶋茂樹や新宿群盗伝で名を馳せた渡辺克巳萩庭桂太(今ではポートレーイティストの大家)、佐藤英明(本誌の連載、蒟蒻問答の両巨匠の迫力ある?顔を毎月撮影している)など、実ににぎやかな顔ぶれがそろっていたのである。この一癖も二癖もあるメンバーが毎週毎週、あれを撮りたい、これを取材したいと迫ってくるのだから、デスクはその交通整理にてんやわんやだった。

 デスクとして最も腐心したのは写真のデキはもちろんのこと、タイトル付けだった。写真にどんな見出しをつけるか。それによって、記事が生きたり死んだりするのだ。

 たとえば、真夏には必ず、ビキニの女性がプールのウォータースライダーを滑り落ちてくる写真を掲載した。そのタイトルが、「恒例 納涼 流しウーメン ああ、マタやってきた恐怖のウォータースライダー・ハシゴ企画」というもの。デスクとしては会心の作だったが、残念ながら女性陣にははなはだ不評だった。

 アルバニアの貨物船が1万人の難民を乗せてイタリア南部の港に到着した。甲板に鈴なりの難民たちは次々と海に飛び込み、大混乱。そのタイトルが、「救いはどこにアルバニア」。これも会心作だったが、不謹慎であると大変不評だった。

 平成2年の総選挙には議員の二世が多数立候補。これを受けて、「総選挙目前 二世新人候補大集合 息子も立つ」とやって当の候補者の方々の不評をかった。なにしろ女性候補もいたもので……。

 平成元年、伊東周辺で群発地震が発生。それのみか伊東沖で噴火まで起きて、客足はパッタリ途絶えた。で、つけたのが、「伊東に行くなら今や ハトヤはヒマや」。これはお分かりいただけているだろうか。「伊東に行くならハトヤ ハトヤに決めた!」というCMソングのパロディであることを。なかなかの会心作だと思ったのだが、当然のことながら、ハトヤは怒った。いたしかたないことである。

 平成2年の春、韓国では国民の不満が高まり、大規模なデモや火炎瓶を投げたりの暴動が起き、全土に緊張が走った。その時つけたのが、「コリア大変! 盧泰愚大統領来日直前のソウル騒擾。いったい韓国はどこに向かうのか」。これに韓国大使館が怒った。電話をかけてきて「なめてんのか。ちょっと大使館に来い」と言う。こんな機会はめったにないので喜んで大使館に出かけた。別にナメてはいない。毎週毎週、タイトル付けにどれだけ苦労していると思ってるんだ、という話を一生懸命したような記憶がある。

 写真もないのに、タイトルだけ先に思いついてしまった場合もあった。坂本堤弁護士一家が忽然と姿を消した平成元年のこと。後にオウム真理教の信者による殺人事件だったことが明るみに出るのだが、当時はまだ判明していなかった。不気味な新興宗教団体、オウム真理教山梨県の上九一色に高い塀を巡らせた広大な本部を構えていた。そこで思いついたタイトルが「富士山麓にオウム啼く」。不肖・宮嶋こと宮嶋茂樹と数人のカメラマンに塀の中の写真を撮影してくるように頼んだ。私は、「遠くに富士山なんか見えたらいいなあ」と呑気な声で言い添えた。宮嶋らは早速2トントラックをレンタル、高い脚立を用意して早朝、現地に向かった。宮嶋が語る。

「脚立の上に立って中を覗き込んでいたら、中から白い衣装を着た信者が何人もばらばら出てきて威嚇してきたんですわ。うわー、えらいこっちゃとすぐに富士宮署に電話して助けに来てもろて。怖かったですわ。威嚇してきた連中を撮影していたので後でプリントしてみたら、新実智光岡崎一明が写っとるやないですか。彼らは後に死刑になっとるんですよ。最後には石井久子や麻原彰晃も出てきて、ビビりましたわ」

 この日の夜、もっとビビりあがるような事態が起きた。自宅に帰った宮嶋は洗濯をしようとアパートの外にある洗濯機のところへ行き、すぐに部屋に戻ったところ、なんとオウムのチラシが玄関先に大量に投げ込まれていたのである。

 もう一人のカメラマンの自宅マンションではエレベータを降りたところから自宅の部屋のドアまで、ドロドロの足跡がこれ見よがしにつけられていた。

 そして、私はというと、夜2時ころ自宅に帰り、マンション1階の郵便受けをチェックしたところ、中からどさりと分厚いオウムのチラシが出てきたのである。ぎょっとして他の家の郵便受けを覗いてみるが、何も入ってはいない。私の郵便受けにだけ大量に突っ込まれているのである。その日のうちに三人の自宅が割られていたのである。

「富士山麓にオウム啼く」企画が早々に中止になったことは言うまでもない。

 大久保さんに申し訳ないことをしたなあ、と謝りたくなるようなタイトルもある。琵琶湖畔のリゾートホテルをダイナマイトで爆破して解体撤去するというイベントがあった。撮影も文章も大久保さんに頼んだ。大久保さんはカメラマンの中でも文章がズバ抜けてうまかった。記事を引用する。

<「ドォーン」という轟音が鳴り響き、土煙がもうもうと上がる。が、それも一瞬のこと。

「なんや、もう終わったんかいな~」

 朝から高台に登ってビル爆破を楽しみにしていたオバはんはブ然。見事にシャッターチャンスを逃したカメラマンは一言、

「あかんワ」

 僅か四秒でドラマは終わってしまったのだった。・・・・・>

 これにつけたタイトルが、「雄琴ソープ嬢も呆れた アットいうま間の爆発劇」。いや、ほんと、大久保さん、その節は、申し訳ありませんでした。

 

 報道カメラマンが精神的、肉体的につらいのはまずは現場に行かないと仕事にならないことである。弾が飛んでこようが放射能が降ってこようが、現場に駆けつけなければ仕事にならない。これがいかに辛いことか。そして、被写体のみんながみんな喜んで迎えてくれるわけでもない。いや、むしろ、怒りをかうことの方が多いくらいである。

 平成三年五月、滋賀県信楽町で、信楽高原鉄道信楽発貴生川行きの普通列車JR西日本の京都発信楽行きの快速列車が正面衝突。死者42名、負傷者614名の大惨事が起きた。

 大久保さんは、週刊文春からポケベルで呼び出され、「すぐに現場に行ってくれ」という指示を受ける。

 大久保さんが書いている。

信楽の現場に入って適当なところにカメラを据えた。

 もう薄暗くて現場の様子はよくわからないが、まだ負傷者が中にいるらしいことは分かった。

 それから一時間も現場にいただろうか。泊まるところはない。タクシーの運転手さんに事情を話して了解してもらい、その日は車中泊と決まった。

 その前にひと仕事。遺体安置所の撮影だ。イヤな仕事だ。場所はすぐに判った。続々と白木の箱が運び込まれてくる。

 もう辺りは真っ暗だがストロボを炊くわけにはいかない。それでも一人、二人の遺族は撮った。

 突然襟首を引っ張られ、ビンタを一発くらった。

三十五、六の人だった。僕は何も言わずただ頭を下げた。

 その人は僕をひと睨みしてどこかへ行ってしまった。

 不思議と頬の痛さは感じなかった。>

 また、こんなこともあった。

 平成七年の阪神淡路大震災のとき。週刊文春編集部より電話が入る。「遺族の写真を撮ってほしい」と。

<僕は「被災者の神経を逆なでするような写真は撮れません」と猛反発した。(中略)

 翌日は遺族がいるという避難所を訪ねた。一カ所目は遺族が留守で空振り。二カ所目は四十歳前後のご夫婦だ。中学生の娘さんを亡くされている。取材のお願いを始めたら、一瞬にしてご主人の顔色が変わった。僕の胸倉を掴んで、「オマエなあ」と後は言葉にならない。「帰ってください」と奥さん。僕は頭を下げて、帰ってきた。

 小さな公園のベンチで休んでいると、「仕事か?」と声がかかった。五十をいくつか超えたおじさんだった。一通りの経緯を愚痴るとおじさんが言った。「家内が死んでん。明日その場所片付けに行くから、来るか?」と。仰天した。おじさん曰く「ひとつだけ頼みがあんねん。卓上のカセットコンロとガスを貰われへんやろか」と。>

 もちろん、大久保さんの仕事のすべてがこんなに辛いものなわけではない。おもわず微笑んでしまうものや、しんみりしてしまうものなども多い。

 写真集を1ページ1ページ繰ってみると、懐かしい顔や事件がぎっちりと並んでいる。

79年、落馬の後遺症と戦い、懸命にリハビリ努めるに福永洋一さん。

86年、卒業証書を手にするPL学園の清原と桑田。

87年、大阪場所で優勝、鯛を手にして喜ぶ北勝海

88年、ダイエーに身売りの決まった南海ホークス最後の試合を淋しそうに見守る鶴岡一人元監督。

89年、山口組四代目の竹中正久組長の法要。

90年、「11PM」最後の収録に歴代ホステス大集合。

92年、脳挫傷で入院中だった横山やすし、98日ぶりに退院。

93年、統一教会合同結婚式に参加した桜田淳子が映画の試写会に。

94年、愛知県の豊山町の町民栄誉賞を受賞して笑うイチロー

97年、酒鬼薔薇事件の被害者、土師淳君の葬儀。

99年、御堂筋をパレードする、ワイセツ裁判でノックアウト寸前の横山ノック大阪知事。

09年、85年の阪神優勝の際に道頓堀川に投げ込まれたカーネル・サンダース人形がボロボロになって発見される。

12年、享年80。「11PM」の司会で知られた、作家の藤本義一逝去。

 どの写真も懐かしいものばかりである。

 先にも書いたが、報道カメラマンは、何が何でも現場に駆けつけないことには仕事が始まらない。何をしていようと、どこにいようと、連絡が入ったならばカメラ機材を手に、一目散に飛び出していかねばならない。

昭和の終わりから平成にかけては、“働き方改革”やら“ワークライフバランス”などというやわな労働環境などどこにもなかったのだ。いつも、“24時間働けますか”と挑発されているような時代だった。携帯電話が登場するのはもう少し後のことで、みんなポケベルを肌身離さず身につけ、一旦緩急あれば、すべてをなげうち、飛び出していった。ライバルに遅れをとることなど決して許されなかったのだ。

 大久保さんの写真集の1ページ1ページには、そんな報道カメラマンの汗と涙と意地ががみなぎっている。

 あとがきの最後に大久保さんはこう書いている。

<今は結婚して3人の子の親となった娘は、小さい頃一緒に遊んでいる時、ポケベルがなると途端に顔色が変わった。そんな娘に親らしいことは何もしてやれなかった。それだけは申し訳ないと思っている>と。

 それは週刊誌報道に携わるものの業のようなものと言えばそれまでなのだが、長く週刊誌に携わった筆者にも、そのやるせない気持ちがよく分かり、この一節に接すると、すこし泣きそうになる。

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月刊「hanada」2020年5月号に寄稿したものです。