路傍の意地

70歳目前オヤジの、叫びとささやき

嘔吐論

   今回は、ちょっと毛色の変わったことを書きます。

 嘔吐論。といっても、サルトルの「嘔吐」について論じるなんて大それたものではありません。もちろん、月賦で車を買ったときに、何年も先までこつこつとお金を支払わねばならない、オートローンの話でもありません。え? そんなこたあ、わかってる? はい、失礼しました。

  ところで、話はすぐに脱線しますが、サルトルの「嘔吐」はフランス語の題では、「La Nausée」。「吐き気」「むかつき」なのに、日本語のタイトルになると、とたんにいかつい「嘔吐」なんて言葉に変わってしまう。ほんとに不思議。ついでにいうと、カミュの「反抗的人間」も「L'Homme Révolté 」で、「暴れる男」なのに、漢語の落ち着き払ったタイトルに変わる。これ、外国の文学作品の日本語訳タイトルの通弊ですね。

 閑話休題。話を元に戻しましょう。どなたもご記憶にあると思うんだけど、小学生のころ、観光バスに乗ってよく遠足に行きましたよね。でね、その時、2,3時間ぐらい経ったころに必ず、ゲロを吐くやつがいたの、覚えてますか。観光バス特有のにおいと、ふわんふわんした乗り心地が小学生のみぞおちあたりに怪しい刺激を与え続けたんですね。

 と、それまではしゃいでいたやつが急に静かになったかと思うと、顔色が青ざめてきて、ごく短い時間の沈黙の後に、グウエッという音とともに、お口から、その朝食ったものを景気よくぶちまけるのです。

 バスガイドさんが、それ用のブリキ(だったね当時は)のバケツをあわてて持ってくるけれど、全然間に合わない。ゲロ小学生自身も、せめてバスの内部ではなく、外に吐こうとして窓を開ける(当時の観光バスの窓はスライド式に開いたもんね)けれど、なにしろゲロンパ寸前ですから、きっちり開けきるパワーもなければ、顔を外に突きだして、勢いよく放出するスキルもない。

 そうするとですね、その朝食べた、白いご飯と野沢菜の漬物とか、塩ジャケやら豆腐とあげの味噌汁なんかが胃液とほどよくミックスされたものが、バス外部の車体やら、内部の床にだらしなーく、こぼれていく。で、外にも、内部にも行かなかった少量は、窓のスライド部分のアルミニウムでできたサッシの溝などに、不快なにおいを撒き散らしながら流れ込んでいくんですね、これが。とろりん、と。

 バスガイドさんが飛んできて、ゲロンパ張本人の口の周りをぬぐい、横に寝かせた後に、そのサッシの溝に入り込んだ吐寫物を雑巾で拭き取ろうとするけれど、なかなかどうして、隅のほうに入り込んだねぎやご飯はうまく取れないんですよ。ちょっと、消化されてたりするもんだから、なおのこと。

 車内には、ゲロのにおいが充満。大体それは冬なので、車の暖房装置のおかげでそのにおいはあまねく広まる。と、突然、ゲロンパ張本人の隣に座っていたやつが、サッシの溝の内容物をしげしげと目撃してしまったせいなのか、ウゲエと第二段を発射! それを見ていた後部座席の女の子がかわいそうに、ゲロゲロと第三弾発射!

 いわゆる、「つられゲロ」という現象ですね、これは。で、今回のテーマはですね、前置きがずいぶんと長くなってしまいましたが「人はなぜ、つられゲロをしてしまうのか」についての陳腐な私見をご披露したいと思うわけです。なぜ、人は、他人が嘔吐している様子を間近で目撃すると、自分も気持ち悪くなってしまうのか。時には、なぜ、一緒になって吐いてしまうのか。気持ちの悪いテーマですが。

 しかし、冒頭からここまで読み進んでくれた人がいったい何人いることか。読んでるうちに気持ち悪くなってきたんじゃないですかね。

 まあ、それはいいとして、「つられゲロ」に言及する前に、それに似ているけれど全然違う「つられあくび」を考えてみます。よく、テレビを見ていて登場人物があくびをすると、見ているこちらもあくびをすることがあります。喫茶店などで友人とお話をしていて、相手がちょっと疲れてあくびをすると、それにつられてこちらもあくびをすることがよくありますよね。

 あれは、つまり、「今、自分の目前にいる人間があくびをしている、ということは彼、または彼女は体内の酸素が不足していて、無意識のうちに、あくび、つまり酸素を体内に大量に供給することによって、その不足を解消しようとしている」という無意識の理解がこちらにあって、本能的に、そう、まったく本能的に同じ動作をしてしまうんじゃないかと思うわけです。つまり、目前の人物があくびをしているということは、今、二人が置かれている環境は、酸素が不足している可能性が高いので、深呼吸したほうがいい、ということを暗黙のうちに察知し、「つられあくび」をしてしまうわけなんです。

 太古の昔、人間は洞窟などで共同生活を送っていたはずです。洞窟の中で焚き火をすることもあったでしょうし、洞窟そのものに新鮮な空気が流入しにくい構造のものがあったに違いありません。ほかの動物や人間の襲撃を避けるための住まいならばなおのことそうだったに違いありません。そんな生活空間で誰かがあくびをすることは、周囲に同時にいる人間たちもそうしたほうがいい行為だったはずです。つまり、それは危険を知らせるシグナルだったわけです。

 ここから「つられゲロ」の行為を類推してみたんです。こういうことです。大昔の人間たちは、おそらくその親族らとともに起居し、ともに同じような食物を食べていたはずです。同じ水を飲み、同じ細菌やウイルスに冒されていた可能性は大いに高いに違いありません。

 そんなときに、集団の成員の誰かが、激しく嘔吐するということは、その原因となるものがなんであれ、成員の全員が同じ原因物質を摂取したおそれが十分にあるわけです。つまり、成員の誰かが「嘔吐している」ということは、「彼、あるいは彼女が体内にとどめておかないほうがいい物質を、口から体外に排出している」わけですから、同様の物質を摂取した可能性の高い周囲の成員も同様に排出したほうが絶対にいいわけです。かくして、「つられゲロ」は人の本能として身についた次第なのです。

 つまり、十分に「つられゲロ」が身に付いた集団は幸いにして生き延び、そうでない集団はそうでないがゆえに、長い人類の歴史の中のどこかで死に絶えたというわけです。ですから、この地球上に生息する人類はみーんな「つられゲロ」仲間だといっても過言ではないのです。

 え、過言? そうかなあ。

 確かに、犬や猫は「つられゲロ」しないわなあ。なんでかなあ。

 ところで、発情している、あるいはそのテの「行為」に専念する他者を見て、自身も発情してしまう、いわば「つられエロ」というものも、ひょっとしてあるんだろうか?

 人は、他人が欲望するものを、欲望するとよく言われるから、そういうことはあるのかもしれんなあ。

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2008年3月にこんなくだらないことを書いていました。