路傍の意地

70歳目前オヤジの、叫びとささやき

コーエン兄弟の「ノーカントリー」を観る

   火傷をすると、その部分が、水ぶくれと呼ばれる症状を呈する。皮膚の薄皮が浮いて、その中に水状の体液がみっちりたまったようになり、「それ、つぶさないようにね。自然に治るのを待たなくちゃだめよ」と親に言われたものだったが、必ず、何かの拍子につぶしてしまうのだった。つぶすと体液が漏出し、薄皮がその下の本皮(なんと呼ぶんでしょうかね。真皮?)にいびつにくっついて、変な具合になってしまう。そうなると、治りも、あまりよくないし、治癒後もなんとなく痕が残ってしまう・・・・・。

   トミー・リー・ジョーンズの顔をみると、必ず、つぶれた水ぶくれを思い起こす。彼の両目の下には、そんな風に、妙なしわがたるんでいる。この世の「見なくともいいもの」をあまりに多く見てきてしまった、老いた男の疲れた人生を感じさせる、面構えである。

    コーエン兄弟の新作映画「ノーカントリー」は、テキサスの保安官を演じるトミー・リー・ジョーンズが、「このろくでもない国よ」と、全編、嘆息をついているような映画である(よく考えると、サントリーのBOSSコーヒーのCMにトミー・リー・ジョーンズを起用した人は、恐るべき慧眼であるといわねばならない。顔面から、厭世観がにじみ出る度合いは、全人類中NO1だと思う)。

   映画のオリジナル・タイトルは「NO COUTRY FOR OLD MEN」。
「じいちゃんが住めるような国じゃないな」である。「俺たちに明日はない」ではなくて、「じいちゃんに住む国はない」である。
   映画に充満する「ろくでもなさ」は、執拗に描写される、リアルな血と傷と死体の描写に代表される。
    乾いた土に染み込んでいく血液、車の衝突事故で腕から飛び出た骨、射殺体がむき出す白目や、死後硬直した死体の数々。そんなものを次々に見せつけられると、意味のない、むき出しの暴力こそが、この国の「ろくでもなさ」の代表なのだと、コーエン兄弟は宣言しているのだろうかと、解釈しそうになる。

    しかし、実はこの映画から、何らかのメッセージを汲み取ろうとしても、おそらくは失敗する。ベトナム戦争終結してから5年。1980年のテキサスに横溢していた「ろくでもなさ」を、コーエン兄弟が精緻に告発しようとこころみているかといえば、全然そんなことはないのである。1980年、というのも、亡くなった老婆の墓石にそう彫られているから分かるまでで、画面から、「時代」が匂いたってくるわけではない。画面から伝わってくるのは、アメリカを覆っていた「ろくでもなさ」というよりは、とてつもない「狂気」の災厄の「恐ろしさ」とでもいうべきものなのである。

    あるいは、OLD MENとYOUNG MENとの絶望的な確執が描かれているかというと、そんな気配もない。たしかに、老人たちは、
「20年前に、テキサスの青年が緑の髪をして鼻にピアスをするようになると想像したか?」
「老人の年金を奪うために、その老人を拷問にかけるやつが現れるなんて思ってもみたか?」
「失ったものを取り返そうと努力すれば努力するほど、俺たちは、もっと失ってしまったんだ」
 と泣き言を並べるが、そんなものは、単なるスパイス。いつの時代にも、OLD MENが吐露する繰言に過ぎない。

 余談になるが、この映画に登場するOLD MENたちの存在感たるや、ただものではない。この映画を観て、一番驚愕したのが実はこの人のいい、田舎のじいちゃんたちの存在感である。


    酸素ボンベの凶器で眉間を打ち抜かれたじいちゃん、因縁つけられておたおたするガソリン・スタンドのじいちゃん、道端でバッテリーあがりの車があるとみて、親切にケーブルを持って降りてきて、殺されちゃうじいちゃん。道端に転がり出てきた逃亡者を、助手席に乗せてやったとたんにのど笛撃抜かれて血を吹き出して死んじゃうじいちゃん。


    どのじいちゃんも、テキサスで生活する本物のじいちゃんで、たまたま頼まれて演技しているだけではないのか、という気にさえさせられる。このリアリティには舌を巻くが、それはあくまで、余談である。

 結局のところ、この映画は「暴力についての寓話」なのだ。

 逡巡も、悔悟もない「純粋暴力」の間断なき遂行。映画の始まりから終わりまで、観客は「そこ」に釘付けにされる。人間的解釈が入り込む余地がほとんどない、精神病理的暴力を目の当たりにして、われわれの身内には終始、「緊迫感」がみなぎる。今にも断切してしまいそうなほど、きりきりと張り詰められたピアノ線のような緊張感で観客はくたくたにさせられるのだ。

 時に、「暴力」の叙情性、あるいは「恐怖の静謐」としか呼びようのないものが、画面にふっと現れることがある。それはひとえに映像の力による。暮れなずむ砂漠。赤茶けて乾燥した土に染み入る血液。トレーラーのソファに座って何も映っていないTV画面を見つめる殺人鬼(TV画面に反射する彼の姿をカメラはじっと無味乾燥にとらえるが、なぜか、本来そこに映っていいはずの撮影しているカメラ機材が映っていない!)。
 しかし、それも、実はスパイスでしかない。

 不条理な「純粋暴力」の遂行と、それにともなう「緊迫感」以外に、この映画には、何もない。もちろん、それがいけないといっているわけではない。それだけでも、驚愕すべき才能を兄弟は賦与されていると思う。しかし、それ以上の「何物か」を画面にまさぐってみても、我々は何もつかみ出すことはできないだろう。
 その意味で、クエンティン・タランティーノの「キル・ビル」に近い。よくよく見比べてみれば、どこか似ていませんか。風合いが。


 雑然としたトレーラーでの生活。赤茶けた砂漠。貧困。血。暴力・・・。

 

「純粋暴力」という火で焼けただれた水ぶくれの中に詰まっているのは「緊迫感」という体液である。間違っても押しつぶしたりすることなく、水ぶくれを、水ぶくれとしてそのまま静かに保持しつつ、最後まで楽しむというのが、この映画に接する一番正しい方法のような気がする。

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2008年3月記。