路傍の意地

70歳目前オヤジの、叫びとささやき

桜木花道に、なぜ涙してしまうのか

   本当に、不明なことだったと今になって恥じ入る。


   長い間、漫画を見くびっていた。漫画が嫌いだったわけではない。少年マガジンも少年サンデーも創刊号から読み続けていた。二宮光と同じようにボールを握り、ちかいの魔球を投げようと日夜努力していたこともあったのである。小学生のころには石森章太郎に「弟子にしてほしい」と切々たる手紙を書いた覚えもある(返事はこなかったけど)。なのに、いつしか、漫画を読まなくなっている自分がいた。

    社会人になってから、湘南に住む寺田ヒロオ氏の自宅に伺ったことがある。他でもない、「スポーツマン金太郎」の作者である。小学生の頃には、氏の漫画をそっくりそのまま学校のノートに書き写したりしながら、いつの日か漫画家になろうと夢見ていたこともあった。寺田氏はそのころ、すでに第一線から遠ざかり、静かな日々を海辺の閑静な住宅で過ごしていた。そして、最近の漫画はつまらないね、とポロっと本音を漏らされるのだった。
 その頃からだったような気がする、漫画が自分の視野からフェイドアウトしていったのは。

 

    最近、必要があって人気漫画家の作品を片っ端から読むことになった。その中の一人に井上雄彦がいた。目を通したのは「バガボンド」と「リアル」。ん? と思った。なんだか、とても面白いのである。絵がうまい、というのは当然のこと、物語の世界に読者を引きずり込む力が、並大抵のものではない。登場人物のひとりひとりが、その個性をくっきりと際立たせていて、とても魅力的に描きこまれている。確かな「才能」が、ほとんど漫画を読んでいなかった私にもひしひしと伝わってきたのである。

    そんな話を漫画好きの友人にしたところ、「井上雄彦なら『スラムダンク』を読まなくちゃだめだよ。もう、これまでなんど読み返したか分からない。私のバイブルといってもいいほどの作品」なんだという。


スラムダンク」の名は知っていた。しかし、そんなもんはどうせ、ズボンが半分脱げかかったような頭の悪い青年が登場するバスケ漫画なんだろう、とたかをくくっていたのである。

スラムダンク」完全版全24冊をその友人から借りてきて読み始めた。「これまでなんど読み返したか分からない」というだけあって本はすこし傷んでいる。中には、「風呂で読んでて、どぼんとつけちゃったこともある」というのまであって、なんだがガバガバした巻もある。


  しかし、そんなことの一切が気ならないほど、物語には吸引力があった。巻を措く能わず。かっぱえびせんではないが、読み始めたら、やめられない、止まらない状態になり、い、いかん、こんなに熱中して読んだらすぐに終わっちゃう、とセーブをかけ、読んでいいのは一晩2冊までとし、楽しみを先延ばしにする作戦をとったのだが、第20巻以降はその自主規制もふっとんだ。


  山王工業×湘北の試合が始まると、もう、手に汗握る状態で、ページを繰るのももどかしい。
  20、21、22、23、24と5巻まとめて怒涛の一気読み。空が白んでくるのもなんその。
  24巻の真ん中あたりからは、もう溢れ出る涙で、ページが滲んでよく見えん。でもなんだか、無性に悲しい。ぬぐってもぬぐっても涙がこぼれてくるのである。いったい、この感情はなんなのだ? なぜ、こんなに切ないのだ?

 そのことについてこの1週間ずーっと考えていた。そして、なんとなく、自分の「悲しみ」の理由が分かってきたように思う。なぜ、そんなに涙が出てきたのかについて記してみたいと思う。


  しかし、いかんせん、「スラムダンク」を読んだことのない人にとっては、こいつはいったい何を言っているんだろうと、いぶかしまれるような話になるかもしれない。できることなら、どちらさまも、全24巻読了した後にお読みいただけたら幸いなのだが(これも最近知ったのだが、「スラムダンク」は累計1億冊も売れたんだそうである。すさまじい、ポピュラリティである。未読の人のほうが少ないのだろうか?)。

    第20巻から最終巻の24巻まで、5巻分を使って、インターハイのバスケットボールの事実上の決勝戦とも言える、秋田代表の山王工業と神奈川代表の湘北との死闘が描かれる。この1試合だけを描くために、井上雄彦は約1200ページを費やすのである。そんな漫画、これまで、見たことも聞いたこともない。恐るべきしろものである。

    物語は湘北高校バスケットボール部を軸に展開する。すでに読んだことのある読者が、その記憶を喚起するためにも、メンバーの名前を書いておこう。キャプテン赤木剛憲木暮公延、桜木と犬猿の仲の流川楓宮城リョータ三井寿、そして主人公ともいうべき桜木花道。その名前を見るだけで、懐かしいシーンが甦ってくるはずである。

   そんな彼らが一丸となって、最強のチーム山王工業に立ち向かう。1200ページ全篇に汗が飛び散り、ぜーぜーはーはーと激しい呼吸音がひっきりなしに響く。読んでいるこちらも、心拍数が上がるような死闘が延々と繰り広げられる。主人公・桜木花道はさしてバスケに興味もなかったのだが、ひょんなことからそのメンバーに加わることとなり、特訓の成果もあって急速に成長、リバウンド王として、チームになくてはならぬ存在となっている。

    後半残り2分24秒、74対66で山王がリード。宮城の左膝に当たったボールがコートの外に飛び出そうとするその瞬間、相手ボールにするわけにいかないと、桜木は身を挺して、ボールをコート内に投げ戻す。しかし、自身は体勢を大きく崩して大会委員が居並ぶ机に背中から激突する。

    残り1分40秒、76対69で依然山王リード。このころから、桜木の背中の痛みが激しくなる。「いてえ・・・ やっぱいてえ・・・ 何だよ これは」と桜木自身も、ひょっとするとこれは「選手生命にかかわるダメージかもしれない」と、その痛みに不安を感じ始める。にもかかわらず、激しいプレーに挑み、ついにコートサイドに倒れこんでしまう。もはや、これまでかと周囲の人間は誰しもそう思った。

    残り1分9秒、76対71で山王リード。気力で立ち上がった桜木はプレーに復帰しようとするが、安西監督はそれを押しとどめる。このままプレーを続行させれば「選手生命」そのものが危ぶまれることを誰よりも察知していたからに他ならない。しかし、その監督に向かって汗をぬぐいながら桜木が尋ねる。
「オヤジの栄光時代はいつだよ・・・・ 全日本のときか?」
 応えに窮する安西監督に、畳み掛けるように花道は言う。
「オレは・・・ オレは今なんだよ!!」
 桜木は監督の指示を無視して、自ら「交代」を告げる。不安の視線を投げかける周囲の目をよそに、監督に鮮明に告げる。
「オヤジ・・・ やっとできたぜ オヤジの言ってたのが・・・・ ダンコたる決意ってのができたよ」

 桜木の鬼気迫るディフェンスと三井の3点シュートが決まり、残り49秒、76対74で山王リード。2点差。
 流川のシュートが阻止され、ボールがコート外に飛び出そうとするのを、再び桜木が身を投げ出して拾い上げ、宿敵流川に投げ返す。背中に甚大なダメージを抱える桜木にとってはほとんど自殺行為とも言えるようなプレーである。ボールを受け取った流川は、3点シュートをきれいに決めて、ついに逆転。77対76、湘北リード。残り24秒。

  秒針が刻一刻と回っていく。15秒、14秒、13秒、12秒・・・。
  残り9秒4、非情にも山王のシュートが決まる。78対77で山王逆転。その瞬間、桜木は自ポスト下に向かって気力を振り絞り全力で走っていく。必死の形相である。赤木からのすばやいパスが流川に渡る。残り4秒。流川がドリブルで切り込む。残り2秒。右45度で、待ち受ける桜木。
「左手はそえるだけ・・・」と特訓での教えを自らに言い聞かせる。桜木がフリーであることを見た流川は、すかさず桜木にパス。残り1秒。桜木、シュート!

  ボールはゆっくり弧を描いてネットに吸い込まれていく。

 タイムアウトの笛。試合終了。79対78、ついに湘北は山王工業を下す。

 大歓声、涙、汗、激しい呼吸音、蒸気を上げそうなヒートアップした体温。
 描きこまれた全員が号泣している。涙、涙、涙。
 当然のように読んでいるこちらも涙、涙、涙。
 ひょっとしたら、井上雄彦自身も泣きながら描いていたのではないか、とさえ思わせるようなカタルシスである。

   多くの読者が、このシーンで涙を流したはずである。


   バスケに青春をかけた高校生たちが、長く激しい試練ののちに、ついに自らの手で勝利をおさめる。その歓喜の瞬間を一緒になって迎えるうちに、読者は感動の渦に巻き込まれてしまうのである。


  いってみればステレオ・タイプのスポーツ漫画のカタルシス・パターンである。情熱をかけて打ち込むべき何事かがあり、それが成就した瞬間に立ち会うことによって、ともにその感動に打ち震える。

 

  しかし、である。実は私が味わった「切なさ」はそのようなものではなかった。「感動」ではなく「悲しみ」だったのである。いったい、それは、どこからやってきたのか?


スラムダンク」のエンディングについて、これまで、誰もそのような指摘はしなかったし、ただの一人もそのようには読み取らなかったようなのだが、思い切って書いてしまおうと思う。一つの比喩として。

 

  実は、桜木花道は、死んだのである。

  残り2分24秒の時点で、桜木はルーズボールを拾い上げようとして、背中から机に激突している。そして、残り1分40秒の時に、痛みに耐えかねてコートサイドに倒れこむ。桜木は、重篤な脊椎損傷を負っている。


  それ以降に展開される試合はすべて、花道のうすれゆく意識の中で繰り広げられる「妄想」にすぎないのである。そのことに多くの読者は気づいていない。もちろん、作者である井上雄彦さえ、気づいてはいない。


 時に物語は作者の手を離れて、物語それ自体が生き始めることがある。

  残り1分9秒、朦朧とした桜木は、監督の許可も得ず、勝手に自分で選手交代を告げてコートに戻る。そもそも、「妄想」の世界以外に、そのようなことはありえない話である。「このままプレーさせておくべきではないと分かっていた」と冷静な判断を下す安西監督が瀕死の選手のプレーへの復帰をすんなり許可するわけがない。体を張って制止するはずなのである。物語ではそのシーンはコミカルに小さいコマで描かれている。そのようにスルーさせるしかないような、ありえない話だからである。そのようなありえない話は「妄想」の中でしか起こりえない。

   あるいは、全24巻中、23巻と四分の三巻まで犬猿の仲だった桜木と流川が、最後の最後に絶妙のコンビネーションを2度見せる。最初は身を挺して救ったルーズボールを、桜木が流川にパス。2度目は、切り込んだ流川から桜木への勝利をもたらす奇跡的なパスである。いくら漫画だからといって、そんな漫画のようなこと(!)が都合よく2度も起きるものではないのである。それも、桜木が無意識のうちに切望したことであったとすると、分からぬ話ではない。桜木が誰よりも憎んだ流川は、誰よりも愛した仲間だったのである。冥冥たる意識の中で、桜木はそのことを、確かに実感したはずである。

   桜木がその短い一生をコートで終えた以上、物語は終わるしかない。続けようにも主人公がいなくなっては、話が続かない。「スラムダンク」の唐突なエンディングはそのように考えれば、すんなり飲み込めるはずである。

   桜木花道は死んだ。明日のジョーが白く燃え尽きたように、青春の熱情の中で、その短い生を終えたのである。そのことが、切なかったのである。

「オヤジ、おれが一番輝いているのは今なんだよ。今、燦然と輝くことができるなら、この先の人生なんか棒に振ったっていい。今、今、頼むからオレに輝かせてくれよ!」


  そんな風に絶叫し、破壊された背中を震わせながら、花道はコートに舞い戻る。

    これまで、いったいどれだけの青春が、その熱情に翻弄されるように、おのれ自身を焼き尽くしてしまったことか、と思うと涙を禁じえなかったのである。

    青春の渦中にいるものは、その「青春の熱情」が一時的なものでしかないことになかなか気がつかない。気がつかないばかりか、時に永遠に続くものなのだと錯覚してしまうことさえある。
   年齢を重ねると分かるが、「熱情の季節」は一瞬で終わる。その後には、地道で平穏な長い日常がやってくる。満員電車に乗り、タイムカードを押し、風呂上りに缶ビールを飲むような、退屈といえば退屈、穏やかといえば穏やかで凡庸な日常が訪れる。多くの人間は、激動の青春の季節を過ごした後に、なだらかにそのように大人になっていく。

   だけれども、中には、そのような人生にきっぱりとノーを突きつける青春もある。桜木花道とは、そんな青年の一人だったのである。

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2008年3月記

 

 

五木ひろしの「近道なんか、なかったぜ。」

2008年3月記。

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  ちょっと前の話だが、サントリーウイスキーの広告で、顔に深い皺が刻まれた老いた男の顔のドアップの写真を使ったものがあった。写真はモノクロ。男は、多分、西部劇によく出演する、とても有名な俳優である。名前は忘れた。


  その写真に添えられたコピーが、「近道なんか、なかったぜ。」
  誰のコピーだったかも忘れた。アート・ディレクションとデザインは井上嗣也氏。それは間違いない。井上氏の事務所で、その新聞広告用のゲラを見て、「おお、かっこいいコピーですねえ」と賛嘆した覚えがあるからだ。

 

  もうすぐ還暦を迎える五木ひろしの「紫綬褒章受賞を祝う会」に出席、涙をこらえながら熱唱する五木ひろしを見つめながら、そのコピー、「近道なんか、なかったぜ。」を思い出した。

 

  会場は、芝のザ・プリンス パークタワー東京のボールルーム。そこに招かれた客が約700名。政界、財界、芸能界、スポーツ界、マスコミなどなどテレビで見たことのある顔がぎっちり並んでいる。


  周りをキョロキョロするだけで、長門裕之朝丘雪路、藤あやこ、コロッケ、池乃めだかつんく堀内孝雄吉幾三研ナオコ笑福亭鶴瓶師匠・・・。
  最前列にはなんと、長嶋茂雄金田正一。よーく眼を凝らすと、SPに守られるよう海部俊樹元首相やら、ぷっくり太った加藤紘一元国務相なんかが顔を並べている。まったく、余計な感想だが、太った加藤紘一はなんとなく、太った吉幾三に似ている・・・・。

  この盛大な会の趣旨は、五木ひろし紫綬褒章受賞を祝うとともに、数日後に控えた還暦を祝し、かつ、事務所の移籍(五木プロモーションからアップフロントエージェンシーへ)を内外に広く告知することにあるようなのだが、それにしても、大規模なものである。司会は、泣き虫・徳光和夫アナ。その絶妙の口上の後に最初の挨拶に登場したのが、麻生太郎氏。縦縞のシャツに蝶ネクタイ、おまけに口がゆがんでいるから、ひょっとして腹話術でもご披露されるのであろうか、と一瞬驚くが、例の、しわがれ声で、「歌手で紫綬褒章を受章したのは五木さんが11人目。最初は東海林太郎。つい最近では8年前に島倉千代子さんが受賞」と、今回の受賞がいかに大変な壮挙であるかを独特の口調で説明される。


  話が終わって、徳光さんが、「さすがにいい声をしていらっしゃる。今度は浪曲子守唄をぜひ聞いてみたい」とソッコー、いじる。天才的である。

 

  しかし、麻生太郎氏にせよ、五木ひろしにせよ、スピーチがうまい。スピーチがうまい人は、話の間に、あー、うー、えー、と、大平正芳のように声をはさまない。はさまずに沈黙を置く。平気で、聴衆に沈黙を投げかける。喋りべたはその沈黙に耐えられず、つい、意味のない音を出してしまう。これが、「下手」にますます拍車がかかる。

  それはさておき。冒頭の「近道なんか、なかったぜ。」である。
五木ひろしは現在でこそ、日本演歌界において、押しも押されもせぬ不動の地位を築きあげているが、ここに至るまでには、決して平坦な道のりではなかった。

  16歳のときにコロンビア全国歌謡コンクールで優勝してスカウトされるものの、その後7年間は鳴かず飛ばず。1970年、これでだめなら田舎に帰って農業をやる、と決意して、あの「全日本歌謡選手権」に挑戦。長沢純が司会をつとめていた名物番組で、奇跡的に、10週連続勝ち抜きグランド・チャンピオンの座に輝き、首の皮一枚残してプロの世界に居残ったわけなのである。そして翌年、「よこはま・たそがれ」で再デビュー。


  以後のとんとん拍子は、我々がよく知るところなのだが、当然のことながら、余人にはあずかり知らぬ、決して吐露できない苦労がきっと数多くあったに違いない。女優との結婚、母親の死などのプライベートな事件のみならず、何しろ、演歌の世界である。一筋縄ではいかぬ、義理と人情の複雑なしがらみが渦巻いていたとしても不思議はない。

  そんなこんなの一切合切が、集まった客を前にして歌う五木ひろしの心に一挙に去来したに違いない。感情の堰があやうく切れそうになりながらも、締めの曲「道」を、ドラマチックに最後まで歌い上げてみせた。

  しかし、その後、700人の観客を前にしての最後の挨拶で、「今、声を上げて泣きたいきもちです」と言葉を詰まらせると、五木ひろしは急に目頭を押さえた。
 3日後に還暦を迎えようという男が、壇上の上で、大勢の客の前で泣くのである。

  16歳でデビューして44年間、自分の「喉」に命をかけて、ひたすら歌い続けてきた。44年間は長い。自分の「喉」に、自分の家族の、そして、周りの関係者の生活のすべてを賭けて歌い続けることの「孤独」と「不安」を想像してみてほしい。ほとんどの人間は、普通、そのような「孤独」に直面しないで生きている。しかし、歌手は違う。「たったひとりで生きていくしかない」職業なのである。

  他の誰も、助けてはくれない。

  そんな人知れぬ艱難の末に、今上天皇から、「本当によくがんばった。立派である」というお褒めの言葉として、紫綬褒章を授かったのである。今上天皇から授かるということは、日本中の人々から、「よく頑張ったね。ほんとにありがとう」という労いの言葉を受けるに等しい。そりゃ、泣けてくるだろう。感極まるだろう。


  44年間の歳月の中には、きっと辛いことが、いっぱいあっただろう。死ぬまで人には言えぬ苦しい思い出も数え切れぬほどあるに違いない。
 いいよ、いいよ、泣けばいい、思いっきり泣けばいいよ。遠くから見ていて、そんな気持ちがこみあげてきた。

  パーティが終わって引き上げる客の一人ひとりに挨拶するために五木ひろしは出口に立っていた。そして、真っ赤な目を潤ませながら、一人ひとりの手を強く握って頭を深々と下げる。


  そんな姿を見ていると、「近道なんか、なかったぜ。」という例のコピーがくっきりと、思い出されたのである。

カラスの話

  去年の春のことなんですけどね、甲州街道を愛車で快適に走っていたんですよ。春の陽光の下、ああ、いい天気だなあなんてのんきな気分でね。
 ちょうど、烏山のあたりだったと思うんだけど、信号でブレーキを踏むと、いきなり空から真っ黒なものが舞い降りてきた。一瞬ぎょっとしたんだけど、よく見るとそれはカラス。

 前に止まったトラックがどこかの精肉工場のもので、荷台に雑然と大きなたらいのようなものが積んであって、その中に山盛りの牛か豚の脂身が詰まっている。そのピンク色の脂身めがけて、カラスの野郎はまっすぐ舞い降りてきてついばみ始めたんですよ。嘴でつんつんとついてほぐし、引っ張って左右に振ってから嚥下。それを繰り返す。

  ふーん、カラスって脂身が好きなんだ、と思って気持ちの悪い光景を見てたんですけどね。まあ、考えてみれば生ゴミの袋を食いちぎって食べているのを見ると草食動物ではないことはすぐ分かりますわね。
  遭遇した場所が烏山ってのも、すごいなあと思って。昔は、このへんにカラスがいっぱい棲む山があったんでしょうかね。

  で、それから数ヵ月後。初夏の早朝。
  埼玉の嵐山CCで友人とゴルフをするために、車で関越に乗って、東松山ICで降りて都幾川沿いの下の道を走ってたんですよ。早朝だから、自分の目の前に車はいない。前のほうが見晴らしよく見えるんだけど、道路のずーと先のほうに何だか黒いものが見える。よく見ると対向車線上に黒いゆらぎが見える。いったい、あの黒い塊は何なんだろう。ゆらゆらと動いているようにも見えるし。

 近づいていくにつれてそれが何か分かってきました。カラスです。しかも1匹や2匹じゃない。何十羽も蝟集している。なんで、道路にカラスがかたまってるんだ? それも近づいていくにつれて分かりました。

 やつらは、猫を食っていました。車に轢かれたばかりの、まだ生温かそうな猫の内臓やら肉を、よってたかって、むさぼり食っているんです。私の車がその横を通り過ぎるときも一顧だにしない。ブーっとすぐそばを走り抜けていくのに、まったく気にしないで無心についばみ続けている。とんでもない鳥だなあ、カラスってのは、と思いました。

 と、そのとき、前方から、でっかいダンプがやってきた。当然ダンプの運転手は自分の行く手に黒い塊がみえたはずです。そして近づくにつれてそれがカラスだということにも気づいたはずです。なぜ、カラスが群れてるのかも視認したはずです。うわあ、どうすんのかなあ、と見ていると、ダンプは減速するどころか、アクセル全開、速度を増して、その黒い塊の中に突っ込んでいく! その恐ろしい光景がサイドミラー越しに見えました。

 ぐしゃぐしゃぐしゃ。ひえーーー、と思いました。
 何本かの黒い羽がふわんふわんと、道路に舞い降りる。ダンプは轟音を響かせて遠ざかっていく。
 酸鼻、という言葉がなぜか、突然頭に去来しました。

 ダンプの運転手は、両輪の間にカラスの黒山を通過させようとしたのでしょう。しかし、自分の頭上に覆いかぶさる黒い鉄の塊に、さすがのカラスどもも驚愕し、えらいこっちゃと逃げようとしたために、後輪に蹂躙されてしまったわけです。

 ゴルフのラウンドを終えて風呂にゆっくり入ってからの帰途。夕刻です。「現場」に近づいてきたので、いやだなあ、という気持ちと、そのあと、どうなってるのかこの眼でしかと見てみたい、という気持ちがせめぎあいました。しかし、「現場」にはなんのあとかたも残ってなかったんですよ。
 ひょっとして、あの目撃は白昼夢だったのだろうかと思うほどに、きれいさっぱり片付けてありました。 

 

 実は、この話には、嘘が含まれている。
なんてことを書くと、せっかく生まれた緊迫感が烏有に帰してしまうが、嘘というのは本当である。


 カラスたちが群れて、轢かれた猫を食べているところを車の中から通りすがりに「目撃」したことは実際の体験である。


 そのカラスの群れにダンプが突入して行った、というのは、一緒にラウンドした友人が昼食時に教えてくれた話である(飯時に開陳するにふさわしい話ではないと思うが)。彼は、私のすぐ後ろを走っていて、目撃したダンプ突入の様子をリアルに物語ってくれたのである。私はそれを目撃してはいない。


 その模様を、話を聴くことによって、自分が目撃した出来事に付加するように、リアルに頭の中で再現していたのである。

 そのせいだと思うが、ダンプ突入のシーンを想起する自分の視座は、反対車線の、ダンプの後方にあって、しかも固定されている。自分の目撃は走る車の中からされたのだから動的なものなのに、この「記憶の再編」では、反対車線の路肩に固定されたカメラからの眼差しを、私は送っているのである。だから、踏み潰されたカラスの羽が、アニメのようにふわんふわんと舞い落ちるのを、私は観ている。


  だいたい、走り去っている車のサイドミラーを通して、羽が舞い落ちるところなんか見えるわけがないのである。

 にもかかわらず、私はすべて自分で目撃したつもりでこの話を書き綴り、なんの抵抗もなかった。書いている最中に、ひょっとして、自分は事のすべてを目撃したのではなかったか、という気にさえなったのである。

 過去の記憶とは、多かれ少なかれ、そのようなものである。意識的にか無意識的にか、断片的な記憶がスムースに甦るように、頭の中で巧妙に「記憶の再編」は行われているように思う。

 カラスくんのおかげで、そんなことに気がついた。

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2008年3月記。

コーエン兄弟の「ノーカントリー」を観る

   火傷をすると、その部分が、水ぶくれと呼ばれる症状を呈する。皮膚の薄皮が浮いて、その中に水状の体液がみっちりたまったようになり、「それ、つぶさないようにね。自然に治るのを待たなくちゃだめよ」と親に言われたものだったが、必ず、何かの拍子につぶしてしまうのだった。つぶすと体液が漏出し、薄皮がその下の本皮(なんと呼ぶんでしょうかね。真皮?)にいびつにくっついて、変な具合になってしまう。そうなると、治りも、あまりよくないし、治癒後もなんとなく痕が残ってしまう・・・・・。

   トミー・リー・ジョーンズの顔をみると、必ず、つぶれた水ぶくれを思い起こす。彼の両目の下には、そんな風に、妙なしわがたるんでいる。この世の「見なくともいいもの」をあまりに多く見てきてしまった、老いた男の疲れた人生を感じさせる、面構えである。

    コーエン兄弟の新作映画「ノーカントリー」は、テキサスの保安官を演じるトミー・リー・ジョーンズが、「このろくでもない国よ」と、全編、嘆息をついているような映画である(よく考えると、サントリーのBOSSコーヒーのCMにトミー・リー・ジョーンズを起用した人は、恐るべき慧眼であるといわねばならない。顔面から、厭世観がにじみ出る度合いは、全人類中NO1だと思う)。

   映画のオリジナル・タイトルは「NO COUTRY FOR OLD MEN」。
「じいちゃんが住めるような国じゃないな」である。「俺たちに明日はない」ではなくて、「じいちゃんに住む国はない」である。
   映画に充満する「ろくでもなさ」は、執拗に描写される、リアルな血と傷と死体の描写に代表される。
    乾いた土に染み込んでいく血液、車の衝突事故で腕から飛び出た骨、射殺体がむき出す白目や、死後硬直した死体の数々。そんなものを次々に見せつけられると、意味のない、むき出しの暴力こそが、この国の「ろくでもなさ」の代表なのだと、コーエン兄弟は宣言しているのだろうかと、解釈しそうになる。

    しかし、実はこの映画から、何らかのメッセージを汲み取ろうとしても、おそらくは失敗する。ベトナム戦争終結してから5年。1980年のテキサスに横溢していた「ろくでもなさ」を、コーエン兄弟が精緻に告発しようとこころみているかといえば、全然そんなことはないのである。1980年、というのも、亡くなった老婆の墓石にそう彫られているから分かるまでで、画面から、「時代」が匂いたってくるわけではない。画面から伝わってくるのは、アメリカを覆っていた「ろくでもなさ」というよりは、とてつもない「狂気」の災厄の「恐ろしさ」とでもいうべきものなのである。

    あるいは、OLD MENとYOUNG MENとの絶望的な確執が描かれているかというと、そんな気配もない。たしかに、老人たちは、
「20年前に、テキサスの青年が緑の髪をして鼻にピアスをするようになると想像したか?」
「老人の年金を奪うために、その老人を拷問にかけるやつが現れるなんて思ってもみたか?」
「失ったものを取り返そうと努力すれば努力するほど、俺たちは、もっと失ってしまったんだ」
 と泣き言を並べるが、そんなものは、単なるスパイス。いつの時代にも、OLD MENが吐露する繰言に過ぎない。

 余談になるが、この映画に登場するOLD MENたちの存在感たるや、ただものではない。この映画を観て、一番驚愕したのが実はこの人のいい、田舎のじいちゃんたちの存在感である。


    酸素ボンベの凶器で眉間を打ち抜かれたじいちゃん、因縁つけられておたおたするガソリン・スタンドのじいちゃん、道端でバッテリーあがりの車があるとみて、親切にケーブルを持って降りてきて、殺されちゃうじいちゃん。道端に転がり出てきた逃亡者を、助手席に乗せてやったとたんにのど笛撃抜かれて血を吹き出して死んじゃうじいちゃん。


    どのじいちゃんも、テキサスで生活する本物のじいちゃんで、たまたま頼まれて演技しているだけではないのか、という気にさえさせられる。このリアリティには舌を巻くが、それはあくまで、余談である。

 結局のところ、この映画は「暴力についての寓話」なのだ。

 逡巡も、悔悟もない「純粋暴力」の間断なき遂行。映画の始まりから終わりまで、観客は「そこ」に釘付けにされる。人間的解釈が入り込む余地がほとんどない、精神病理的暴力を目の当たりにして、われわれの身内には終始、「緊迫感」がみなぎる。今にも断切してしまいそうなほど、きりきりと張り詰められたピアノ線のような緊張感で観客はくたくたにさせられるのだ。

 時に、「暴力」の叙情性、あるいは「恐怖の静謐」としか呼びようのないものが、画面にふっと現れることがある。それはひとえに映像の力による。暮れなずむ砂漠。赤茶けて乾燥した土に染み入る血液。トレーラーのソファに座って何も映っていないTV画面を見つめる殺人鬼(TV画面に反射する彼の姿をカメラはじっと無味乾燥にとらえるが、なぜか、本来そこに映っていいはずの撮影しているカメラ機材が映っていない!)。
 しかし、それも、実はスパイスでしかない。

 不条理な「純粋暴力」の遂行と、それにともなう「緊迫感」以外に、この映画には、何もない。もちろん、それがいけないといっているわけではない。それだけでも、驚愕すべき才能を兄弟は賦与されていると思う。しかし、それ以上の「何物か」を画面にまさぐってみても、我々は何もつかみ出すことはできないだろう。
 その意味で、クエンティン・タランティーノの「キル・ビル」に近い。よくよく見比べてみれば、どこか似ていませんか。風合いが。


 雑然としたトレーラーでの生活。赤茶けた砂漠。貧困。血。暴力・・・。

 

「純粋暴力」という火で焼けただれた水ぶくれの中に詰まっているのは「緊迫感」という体液である。間違っても押しつぶしたりすることなく、水ぶくれを、水ぶくれとしてそのまま静かに保持しつつ、最後まで楽しむというのが、この映画に接する一番正しい方法のような気がする。

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2008年3月記。

 

嘔吐論

   今回は、ちょっと毛色の変わったことを書きます。

 嘔吐論。といっても、サルトルの「嘔吐」について論じるなんて大それたものではありません。もちろん、月賦で車を買ったときに、何年も先までこつこつとお金を支払わねばならない、オートローンの話でもありません。え? そんなこたあ、わかってる? はい、失礼しました。

  ところで、話はすぐに脱線しますが、サルトルの「嘔吐」はフランス語の題では、「La Nausée」。「吐き気」「むかつき」なのに、日本語のタイトルになると、とたんにいかつい「嘔吐」なんて言葉に変わってしまう。ほんとに不思議。ついでにいうと、カミュの「反抗的人間」も「L'Homme Révolté 」で、「暴れる男」なのに、漢語の落ち着き払ったタイトルに変わる。これ、外国の文学作品の日本語訳タイトルの通弊ですね。

 閑話休題。話を元に戻しましょう。どなたもご記憶にあると思うんだけど、小学生のころ、観光バスに乗ってよく遠足に行きましたよね。でね、その時、2,3時間ぐらい経ったころに必ず、ゲロを吐くやつがいたの、覚えてますか。観光バス特有のにおいと、ふわんふわんした乗り心地が小学生のみぞおちあたりに怪しい刺激を与え続けたんですね。

 と、それまではしゃいでいたやつが急に静かになったかと思うと、顔色が青ざめてきて、ごく短い時間の沈黙の後に、グウエッという音とともに、お口から、その朝食ったものを景気よくぶちまけるのです。

 バスガイドさんが、それ用のブリキ(だったね当時は)のバケツをあわてて持ってくるけれど、全然間に合わない。ゲロ小学生自身も、せめてバスの内部ではなく、外に吐こうとして窓を開ける(当時の観光バスの窓はスライド式に開いたもんね)けれど、なにしろゲロンパ寸前ですから、きっちり開けきるパワーもなければ、顔を外に突きだして、勢いよく放出するスキルもない。

 そうするとですね、その朝食べた、白いご飯と野沢菜の漬物とか、塩ジャケやら豆腐とあげの味噌汁なんかが胃液とほどよくミックスされたものが、バス外部の車体やら、内部の床にだらしなーく、こぼれていく。で、外にも、内部にも行かなかった少量は、窓のスライド部分のアルミニウムでできたサッシの溝などに、不快なにおいを撒き散らしながら流れ込んでいくんですね、これが。とろりん、と。

 バスガイドさんが飛んできて、ゲロンパ張本人の口の周りをぬぐい、横に寝かせた後に、そのサッシの溝に入り込んだ吐寫物を雑巾で拭き取ろうとするけれど、なかなかどうして、隅のほうに入り込んだねぎやご飯はうまく取れないんですよ。ちょっと、消化されてたりするもんだから、なおのこと。

 車内には、ゲロのにおいが充満。大体それは冬なので、車の暖房装置のおかげでそのにおいはあまねく広まる。と、突然、ゲロンパ張本人の隣に座っていたやつが、サッシの溝の内容物をしげしげと目撃してしまったせいなのか、ウゲエと第二段を発射! それを見ていた後部座席の女の子がかわいそうに、ゲロゲロと第三弾発射!

 いわゆる、「つられゲロ」という現象ですね、これは。で、今回のテーマはですね、前置きがずいぶんと長くなってしまいましたが「人はなぜ、つられゲロをしてしまうのか」についての陳腐な私見をご披露したいと思うわけです。なぜ、人は、他人が嘔吐している様子を間近で目撃すると、自分も気持ち悪くなってしまうのか。時には、なぜ、一緒になって吐いてしまうのか。気持ちの悪いテーマですが。

 しかし、冒頭からここまで読み進んでくれた人がいったい何人いることか。読んでるうちに気持ち悪くなってきたんじゃないですかね。

 まあ、それはいいとして、「つられゲロ」に言及する前に、それに似ているけれど全然違う「つられあくび」を考えてみます。よく、テレビを見ていて登場人物があくびをすると、見ているこちらもあくびをすることがあります。喫茶店などで友人とお話をしていて、相手がちょっと疲れてあくびをすると、それにつられてこちらもあくびをすることがよくありますよね。

 あれは、つまり、「今、自分の目前にいる人間があくびをしている、ということは彼、または彼女は体内の酸素が不足していて、無意識のうちに、あくび、つまり酸素を体内に大量に供給することによって、その不足を解消しようとしている」という無意識の理解がこちらにあって、本能的に、そう、まったく本能的に同じ動作をしてしまうんじゃないかと思うわけです。つまり、目前の人物があくびをしているということは、今、二人が置かれている環境は、酸素が不足している可能性が高いので、深呼吸したほうがいい、ということを暗黙のうちに察知し、「つられあくび」をしてしまうわけなんです。

 太古の昔、人間は洞窟などで共同生活を送っていたはずです。洞窟の中で焚き火をすることもあったでしょうし、洞窟そのものに新鮮な空気が流入しにくい構造のものがあったに違いありません。ほかの動物や人間の襲撃を避けるための住まいならばなおのことそうだったに違いありません。そんな生活空間で誰かがあくびをすることは、周囲に同時にいる人間たちもそうしたほうがいい行為だったはずです。つまり、それは危険を知らせるシグナルだったわけです。

 ここから「つられゲロ」の行為を類推してみたんです。こういうことです。大昔の人間たちは、おそらくその親族らとともに起居し、ともに同じような食物を食べていたはずです。同じ水を飲み、同じ細菌やウイルスに冒されていた可能性は大いに高いに違いありません。

 そんなときに、集団の成員の誰かが、激しく嘔吐するということは、その原因となるものがなんであれ、成員の全員が同じ原因物質を摂取したおそれが十分にあるわけです。つまり、成員の誰かが「嘔吐している」ということは、「彼、あるいは彼女が体内にとどめておかないほうがいい物質を、口から体外に排出している」わけですから、同様の物質を摂取した可能性の高い周囲の成員も同様に排出したほうが絶対にいいわけです。かくして、「つられゲロ」は人の本能として身についた次第なのです。

 つまり、十分に「つられゲロ」が身に付いた集団は幸いにして生き延び、そうでない集団はそうでないがゆえに、長い人類の歴史の中のどこかで死に絶えたというわけです。ですから、この地球上に生息する人類はみーんな「つられゲロ」仲間だといっても過言ではないのです。

 え、過言? そうかなあ。

 確かに、犬や猫は「つられゲロ」しないわなあ。なんでかなあ。

 ところで、発情している、あるいはそのテの「行為」に専念する他者を見て、自身も発情してしまう、いわば「つられエロ」というものも、ひょっとしてあるんだろうか?

 人は、他人が欲望するものを、欲望するとよく言われるから、そういうことはあるのかもしれんなあ。

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2008年3月にこんなくだらないことを書いていました。

あくびをするときは手で口をかくせ

2008年2月にこんなことを書いていた。

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  前項で引用した内田樹氏の著書「ひとりでは生きられないのも芸のうち」(文藝春秋)の中に、とても興味深いことが書いてあった。その一文のタイトルは「子どもに触れさせてはいけないもの」。


 そこで、内田氏は、「金は不浄」という禁忌の感覚は1950年代まで、日本のふつうの家庭に存在していた、と書いている。

<私の子ども時代までは「子どもの前で金の話はしない」ということは日本の家庭の常識であったし、「子どもが人前で金の話をする」ことは即座にゲンコツを食らうほどの禁忌であった。
 高校生の頃、仲間とレストランで食事をしたことがあった。みんなばらばらのものを頼んだので値段が違う。レジで代金を支払うときに、誰がいくらだっけとざわついていたら、中のひとりがやや気色ばんで、「金のことで人前で騒ぐな」といって全員の分を払ってさっさと扉を押し開けて出て行ってしまった。私はその剣幕に一瞬あっけにとられたが、「なるほど」と得心した。>(P209)

 ほぼ似たような時代に育ったので、この感覚はよく分かる。

 たとえば、人にお金を渡すときに、現金を裸で手渡すことは、はしたない行為であると教えられていた。慶事、弔事にお金を包んで贈るのは、お金が「品のないもの」であるという感覚が、みんなに共有されているからなんだろうと思う。おそらく、こういった感覚は、アメリカ人には絶対に分からないだろう。

  死んだ父親からはよく、人に金を貸すな、とも言い渡された。なんで唐突にそんなことをいうのかといぶかしんだが、「特に、親友には絶対、貸すな。そのことで親友を失うことになるかもしれないから」と聞いて、そんなものかと思ったものだった。その忠言にもかかわらず、成人した私は、しばしば人にお金を貸した。そして、確かに、気まずくなったケースは一度ならずあった。

 先人のアドバイスはきくものだなあ、とそのときに思った。
ついで思い出すのは、なぜ父がそんなことをアドバイスしてくれたのか、よく分からないが、「鶏口となっても牛後となるなかれ」と折に触れて呪文のようにいい続けていた言葉である。息子にそう告げずにはいられない、どういう経験が父親にあったのかはついに聞かずじまいだった。

 思い起こすと、禁忌というほどのことではないが、「しつけ」として、今はもう誰も注意を喚起しなくなったような事柄を、父母からしつこく言い渡されていた気がする。

「人より先に風呂に入るときは、必ず、その人に、お先にご無礼します、と言え」
 薪で沸かした風呂に家族は順番で入っていた。今のようにシャワーもなければ追い炊き機能もない。風呂桶にたまったお湯がすべてで、それを全員で大事に使ったのである。あとの人のことを考えると必要以上にぬるめてはならず、お湯を使いすぎてもいけなかったのだ。だから、風呂に入るときには、いつも緊張を強いられていた。

「食事のときは黙って食べろ。ぺちゃくちゃ喋るな。脇をしめて食え。出されたものは絶対残すな」

「ごはんのおかわりをするときは、茶碗を両手で渡せ。いただくときは必ず両手で受け取って礼を述べよ」

「贈答品はそれをくれた人の前で包装紙を開けたりすることは絶対に慎め」

「トイレのスリッパは次の人がはきやすいようにそろえて脱げ」

「あくびやくしゃみをするときは、必ず手で口をかくせ。口の中を人の視線に晒すべきではない」

 口の中や、耳や目や、普段露出していない肉体の部分を人目に晒すことは、恥ずべき行為だったのだ。電車の中で化粧をしたり、物を食したりすることなど、とんでもないことだったのである。

 日常生活のさまざまなシーンで、実にいろんなことをしつけられたことを思い出す。その中には、こんなものもあった。

 子どもの頃、食事のときに沢庵をバリバリ食べていた。すると、母親が、「沢庵は一口で噛み切らないで、必ず二口で噛み切りなさい。一口だと、歯形がそのまま残って、美しくない」と言ったのである。
「食べ物に残された歯形は美しいものではない」。
 子ども心に、ふーむ、と思った。そういうものなのか、と。
 そうしつけられてから、もう何十年もが経つ。

 今年の正月、ふるさとに帰省し、母親と食事に出かけた。
 田辺市の国道42号線沿いにある「銀ちろ」のカウンターにふたり並んでお刺身定食を食べた。
 80歳になる母は、カウンターの椅子の上で小さく見えた。
 背中を丸めて、静かに、すこしづつ箸を運ぶ。そのペースにあわせて私もゆっくりと食べていた。
 見るともなく、ふと母の皿を見ると、そこには、きれいに二口で噛み切られたかまぼこがちょこんと乗っていた。

 すこし、胸がつまった。

 

 

 
 

大佛次郎「終戦日記」を読む。

2008年2月にこんなことを書いていた。

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 ブログを始めたからなのか、人の日記ににわかに興味がわいてきた、という話は以前に書いた。佐野眞一氏の「枢密院議長の日記」(講談社現代新書)について、佐野氏がその執筆にあたって、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、時に日記の筆者を罵倒しながら(笑)、死ぬほど退屈な日記を読み続けた話は、ご披露したばかりである。

  で、続けて読み始めたのが、大佛次郎の「終戦日記」(文春文庫)。鞍馬天狗の作者の、昭和19年9月から、20年10月までの個人的な日記である。これを、毎日、風呂の中で、スポーツドリンク片手に汗をだらだら流しながら、読み進めた。一気に読みきるのではなく、まさにだらだらと楽しみながら読み続けた。そして、昨夜、ベッドの中で深夜、読了。読み終わって、泣いた。

  比喩ではない。夜の闇の中で、静かに、涙を流した。本を読んで泣く、などということはめったにあることではない。まあ、ちょっと、歳をとって涙もろくなったということはあるかもしれない。が、何よりも僕の心をつかんで静かに強く揺さぶったのは、「日本と日本人の行く末をこんなにも一生懸命、案じた人がいたのか」という、崇敬に近い思いだった。
  もちろん、その後で、「翻ってこの俺は、いったいなんという人生を送っていることか」という慙愧の念が襲ってきたことは言うまでもない。

  日記を読む楽しみは、まるで、その筆者と寝起きをともにしているような気になることである。会ったこともない、口をきいたこともない、明治30年生まれの作家と、戦時下の鎌倉で、一緒に酒を飲み、飯を食い、時の為政者や軍部の愚行をのろい、ともにB29の空襲におびえ、ゲーテツルゲーネフやゴオゴリやチェーホフを紐解くのである。

   何日もかけてその日記を読みついでいくと、まるで、大佛次郎が自分の身内のような気持ちになってくる。とても大事な人に思えてくるのである。
 しかし、読み終えて、文庫のカバーに記された作家の経歴を見ると、

<昭和48(1973)年4月30日逝去。>

 とある。そうか、もう死んだのか、もう、死んじゃったのかよー、というなんとも言えない哀切な気持ちが心を覆いつくす。明治30年生まれなのだから、当たり前といえば当たり前なのだが、日記を読み続けていた何日間かをともに生きた、という実感があるから、ある種の喪失感が訪れる。もう、いないのか、あんなにも日本と日本人のことを真摯に憂い続けた人が、もうこの地球上にはいないのか、と思うと、とても無念な気持ちにさせられる。
 できることならば、謦咳に接したかった、と今の僕は切実に思う。が、昭和48年の僕は、たとえそのとき、目の前に大佛次郎がいたとしても、そんなことはこれっぽっちも思わなかったに違いない。

 日記を読んで驚いたことがふたつある。ひとつは、昭和19年、20年というせっぱつまった年であるにもかかわらず、彼らはほとんど毎日浴びるように酒を飲んでいることである。もっとも、稼いだ金はほとんど麦酒と本に費消したとどこかで自嘲的に豪語していたぐらいの人だから、その飲酒量が日本人の平均であったわけではないだろう。

   しかし、昭和のその頃は、銃後でさえ、飲まず喰わずであったに違いない、と戦後生まれの僕たちは早とちりするが、日記を読む限りでは、なかなかどうして、みんな、ジャンジャン飲んでいるのである。他にすることがなかった、ということもあるに違いない。
 どんなに飲んでいるか、その部分だけを書き抜いてみよう。こんな具合である。

<昭和20年 元旦  夕方酔いて門田君のところへ行く。大住君坂田水口などいる。深酔して些か過激の言を弄し翌朝極りわるきことなりし。

正月六日 茶室で熱燗の酒を出し暗くなってから二楽荘へ行く。集る者里見久米長田秀吉屋信子川端康成、村上猶太郎、皆々酔う、乞食大将(大佛次郎のこと)も威張って見せる。

正月七日 佐、今、清、吉野と香風園へ行き飲む。気焔の残りを吉野君と家へ持って帰り激語す。

正月八日 広安氏がくれたウイスキを飲んで寝たが夜中睡られず。

正月九日 新聞三回書き夜十時ウイスキーをのみながら酔った勢いで大きく外科手術をする。
正月 十一日 木原君のところの合成酒を取寄せ岸吉野を呼び飲む。吉野の酔い方近頃激し。>

  おとなしく飲んでいるだけではない。こんな日もあった。

<二月十九日 夕方相馬君が清酒一升さげて入ってくる。岸君を呼び何もないからコンニャクで飲む。吉野君加わる。酔って腹の立つことあり吉野君にバケツで水をかぶせる。怒らなかったのに後で感心した。>

<七月二十三日 山田兼次来たる。昼食後吉野君の家へ酒を持って二人で行き、沢木原これに加わってから無政府状態の酔となり、家へ帰り土中を掘起し取っておきの酒までぬく。(略)あばれ出すと飲みものも喰いものも人に出して了うこと洗城の観あり。何もなくなった。>

  思わず、頬がゆるむが、これは、特に飲酒シーンが多い日を選択的に列挙しているわけではない。適当に選んで抜書きしてみたらこうなったまでである。ビールなどは、本数は少なくなったものの一般に配給されている。日本酒も、あるところにはいっぱいあったようである。 
 考えてみれば、ビールの製造に携わる人々はそれで生計を立てていたわけだから、戦中といえども、生活をしなくてはならず、ビールを製造し続けていたとして何の不思議もない。(もっとも、昭和20年3月14日付けで、「昨日の閣議にて麦酒の製造禁止と決定すと、いよいよ禁酒なり。」の記述がある。もちろん、どうやって調達したのか、大佛次郎翁はその後もかわらず、飲み続けているが。)

   もうひとつ驚いたことは、なんと人の行き来が多い家なんだろうか、ということである。上記の日記の抜粋を見ただけでも、何人もの人物が(我々が知っている人も知らない市井の人も含めて)、入れ替わり立ち替わり大佛家を訪れ、飯を食い、酒を飲み、何事かを談じ、ときに酔っ払って泊まっていくのである。ほぼ毎日誰かが訪れている。しかも、大佛次郎はそのことを苦痛には思っていない。むしろ、愉快に感じているふしもある。

  一升瓶を持って来る人がおり、獲れたばかりのアジをいっぱい持って来てくれるひとがおり、野菜や砂糖や肉を届けてくれる人がいる。向こう三軒両隣のお付き合いだけではない。出版社の編集者、新聞社の記者、軍人、作家、評論家、画家、近所の飲み屋のオヤジやおかみさんなど、およそありとあらゆる人が大佛次郎を尋ねてきて、ほっこりした気持ちで帰っていくのである。人徳といえば人徳だが、むしろ当時の人々は、そのようにしてお互いに助け合って生きていた、と考えるほうが自然なように思う。

   たとえば、この日記の末尾に、当時、大佛次郎が書いた書簡が掲載されている。その中にこんな記述がある。

<この豆腐屋の大将がこの間ひょっくりと台所へ顔を出した。奥さん見てくれと云って二尺ぐらいの大きな鯛を出して、旦那が戦地から帰ってきたお祝いに何か持って来たいとずっと思っていたら今日になってやっとこいつを見つけたから持って来た、喰っておくんなさいと云う。>(昭和19年12月1日付け)

  実は、この豆腐やの大将に限らず、こんな人のいい人々がこの日記には次々と登場するのである。
 ちょうど、この日記を読み進めながら、同時に、内田樹氏の「ひとりでは生きられないのも芸のうち」(文藝春秋)というエッセイ集を読んでいた(氏の書名としては、曲に溺れた難解なタイトルである)。

  そして、なるほど、内田氏が手をかえ品をかえ、主張していることはこういうことなのか、と深く納得することとなった。
  内田氏は、一人で食事をする「孤食」、あるいは「個食」の人が増えていることを踏まえて、こんなことを書いている。

<「個食」という食事のあり方は人類学的には「共同体の否定」を意味していると解釈することができる。
 それが可能であるのは二つの理由がある。
 一つは「食物や水はもう貴重な財ではない」と人々が考えているからであり、一つは「共同体に帰属しなくてもひとりで生きていける」と人々が考えているからである。
 これはどちらも現代日本社会においては合理的な判断である。
 けれども、人類が誕生して数十万年の間、「食物や水が貴重な財ではなく」、「共同体に帰属しなくてもひとりで生きていける」という環境に人間が生きることができたのはきわめて例外的な場合だけである。
 ほとんどの時代、人間たちは恒常的に飢えており、集団的に行動しない限り生き延びられなかった。だから、人間の身体組成は「飢餓ベース」であり、精神は「集団ベース」に作られている。>(P196-197)

終戦日記」に登場する人々の心理と行動はまさに上記の通りではないか。いつ死ぬかもしれない、明日の運命をもしれぬ日常を生きることになると、人は無意識のうちに手を取り合って生き始める。スタンド・アローンな生き方は、即、死に直結する。<人間は共同体を分かち合う他者がいてはじめて人間になることができる。>(P66)という「人類学的知見」も実によく分かるのである。
 内田氏がレヴィ=ストロースの知見としてよく引用している、「人は手に入れたいものは、それを他者に与えることによってしか、手に入れることはできない」という文言も、あるいは、<今必要なのは、「自分のもとに流れ込んだリソース(財貨であれ権力であれ情報であれ文化資本であれ)を次のプロセスに流す」という「パッサー」の機能がすべての人間の本務であるという人類学的「常識」をもう一度確認することである。>(P80)という一文も、よく飲み込めるというものである。

  理屈っぽい話になってしまった。内田氏の文章を引くと、とたんに話が理屈っぽくなってしまうのが困ったもんである(笑)。勝手に引用しておいて難癖つけるとはどういう料簡だ、と叱られるだろうが。

  それはさておき。この日記に記された好きなシーンを最後にご紹介しておきたい。日記には、簡潔な文章で、メモのように坦々と日々の出来事が記されている。詩的な感興や文学的たくらみを、そこに封じ込めようという作者の意図はもとよりないのだが、それにもかかわらず、眼がそこに釘付けになる記述というものがある。まさにその時代のその日時を生きていた人たちの息遣いを、しっかりと聞き取ったような気持ちにさせられるような描写がある。

   たとえば、昭和20年2月7日。

<新聞を二回書いて送ってから一睡。鞍馬の火祭りの校正二百五十頁了、後半など悪くないと思った。合成酒と麦酒一本をコタツで飲む一時半床に入る。宵より雪となる。便所の窓から手を伸ばし南天の葉につもりしを払う。>

  深夜、便所の窓から手を伸ばして南天の葉に積もった雪を払い落とす、大佛次郎の姿が見える。どんな気持ちで、なぜ払い落としたのかは書かれない。しかし、夜の暗闇の中で、さっと落ちる白い雪が見える。
 そんな記述が僕の胸に刺さる。

  あるいは、9月26日。すでに戦いも終結し、疎開していた人々がつぎつぎに帰郷してくる。漫画「フクちゃん」の作者・横山隆一もその一人だった。親交の厚い大佛は横山のことをフクちゃんと呼んでいた。
 
<客、水口内山基、野原夫人、門田ゲッティ来たり夕食、フクちゃんも信州から出てきて加わる。フクちゃん台所より入り来たり酉子の顔を見るなり無言で落涙す。よき人なり。>

  生きて戦後を迎えた二人が再会する。大佛家のかって知ったるフクちゃんは、玄関からではなく、台所の勝手口から入ってくる。そして、大佛夫人を見とめて無言で泣くのである。涙をただ流すのである。
 たまらないシーンである。何回読んでも胸に迫る。
 昭和20年の9月26日夕刻、横山隆一は大佛家の台所で、確かに、すすり泣いていたのである。

   大佛次郎は、戦後の日本と日本人はどうあるべきかを真摯に案じ、かつ実践した人であった。
  戦後の日本の復興を、政治・経済・外交・文化のさまざまな局面で推進した人々は、そのような多くの大佛次郎たちであった。彼らは、明治中期から後期に生まれ、大日本帝国憲法下の「アンシャン・レジーム」のもとで成長し、その倫理と論理を確立した、骨のある日本人たちであった。
 皮肉なことに、戦後の日本の推進力となったものは、戦前の廃棄すべき体制のもとで形成されたものだったのである。
 その彼らがこの世から去り(大佛次郎が死去したのは1973年)、戦後生まれの、戦後の倫理と論理を身につけた日本人が日本運営の中心メンバーになってからというもの、日本丸の運行はまことにもってはかばかしくない。
 明治後期生まれの日本人の実力は、実に、侮れないものなのだ。

 長くなった。クサい話が好きな僕らしいエピソードを書いておしまいにしよう。
 この分厚い日記の中で、大佛次郎は2回、野糞をしている。しかも、うれしそうにそのことを書いている。さあ、どこに書いてあるでしょう?
 ご自分の目で探してください。