路傍の意地

70歳目前オヤジの、叫びとささやき

沢木耕太郎「流星ひとつ」を読む

  コロナ禍で自宅逼塞中に、なんの気なしにyoutube藤圭子の歌を聞いてしまった。デビュー当時の、素朴で図太い存在感と声に圧倒されてしまい、次から次へと映像を観ることとなった。

 

  それを一通り終えると、手には入れていたけれどまだ読んでいなかった、沢木耕太郎の「流星ひとつ」という本を読み始めた。これは1979年秋から年末まで断続的に行われた藤圭子へのインタビューを、会話体だけでまとめ上げた稀有なノンフィクションである。

 

  読み始めればすぐに判るけれど、これは相思相愛の二人の親密な会話そのものである。取材者とその対象者という矩を超えてしまっているように思える。時に沢木は31歳、藤圭子は28歳。

 

  藤圭子は、このインタビューから33年後に新宿のマンションの13階から投身自殺してしまう。そのことを知ったうえでこの対話を読むと、痛々しくてたまらなくなる。藤圭子沢木耕太郎に強い好意を抱いていたであろうこともひしひしと伝わってくるのである。

 

  藤圭子の発言は真率である。あくまでも正直である。沢木はあとがきでこう書いている。<彼女のあの水晶のように硬質で透明な精神を定着したものは、もしかしたら『流星ひとつ』しか残されていないのかもしれない。>

 

  1984年ころのことだったと思う。表参道を歩いていた僕は、黒塗りのハイヤーから降りてくる藤圭子に出くわしたことがある。両手でしっかり生まれたばかりの赤ちゃん(今思えばそれは宇多田ヒカルなのだが)を抱きしめていた。いったい、どこへ行くんだろうと、好奇心から僕は彼女のあとについていった。赤ん坊を抱きしめた藤圭子が向かったのはキディランドなのだった。子供のおもちゃを探す藤圭子の姿をいまでも鮮明に思い出すことができる。

 

  1979年に引退した藤圭子はハワイを経由してニューヨークに向かう。あくまで推測だが、そこで沢木を待っていたのではないかと思う。しかし沢木は渡米しなかった。歴史にも恋愛にもイフはないのだろうけれど、もし沢木が渡米していたら、違う結末があったのではないかと、詮無いことながら想像したりしてしまうのである。