佐野眞一氏、大いにぼやく
このブログをスタートするにあたって、他人の日記というものに興味が起きた。
永井荷風の「断腸亭日乗」やら山田風太郎の「戦中派不戦日記」など、参考にすべき名作日記はいろいろとある。そんなことを思っていた時に本屋で偶然、佐野眞一氏の「枢密院議長の日記」(講談社現代新書)なる本に出くわした。
その帯の惹句に心が動いた。
<大正期、激動の宮中におそるべき“記録魔”がいた
世界最長の日記に佐野眞一が挑む!
宮中某重大事件、皇族・華族のスキャンダル、摂政問題、白蓮騒動、身辺雑記・・・・・
とにかく書いた、何でも書いた。
誰も読み通せなかった近代史の超一級史料をノンフィクションの鬼才が味わい尽す!>
うまいもんですな。
担当編集者が興に乗って、パソコン相手に書きなぐっていたらどんどこ書けてしまって、ええい、全部帯に載せちゃえ、と言ったかどうかは知らないけれど、とにかくにぎやかな帯が出来上がっている。
「世界最長」という部分にまず、眼を奪われた。
ミシシッピ川じゃあるまいし、そんな長いことに意味があるんだろうか、といぶかしんだ。次に「誰も読み通せなかった」というところが妙に気になった。なんで、読み通せなかったんだ? そんな凄い日記なのに、と誰しも思うだろう。
そう、そう思ってしまったときに、もう、負けてしまっているのである。担当編集者にまんまと乗せられてしまっているのである。
ページを繰ってみると、それはもう、もの凄い日記であった。
まず、驚かされるのが、その分量。日記の巻数は、小型の手帳、大学ノートなど297冊。執筆期間は大正8年から昭和19年までの26年間。分厚い本にして50冊は優に超える量だという。しかも、癖のある手書きなので、解読は容易ではない。
日記の筆者は、倉富勇三郎。1853年久留米藩の漢学者の家に生まれ、昭和23年、96歳で死去。東大法学部の前身の司法省法学校を卒業後、東京控訴院検事長、朝鮮総督府司法部長官など経て、枢密院議長などの要職を歴任したエリートである。佐野氏の比喩を借りれば、「石部金吉に鎧兜をつけたような」人物である。
「正直言って、これほど浩瀚な日記を書きつづけた人物が、本当に仕事をするひまがあったのだろうかと、訝られるほどである」という膨大な、この倉富日記の完全読破に挑戦した先達が2人いた。
ひとりは倉富の縁戚にあたる作家の広津和郎。だが、その長大さに途中で投げ出し、次に挑戦したのが、みすず書房創業者、小尾俊人氏。が小尾氏も、倉富のみみずの書のような手書きに辟易して撤退。
そんな難攻不落の巨大日記に、佐野眞一氏が敢然と挑戦! だと思って読み始めたら、全然そんなことはないのである。
実は、佐野氏も日記全部を完全読破できていない。それどころか、26年分の中の2年半分しか読めていないのである(しかし、それでも、400字詰原稿用紙で5000枚ほど)。
しかもそれだけを解読するのに5年を費やし、本書を完成させるためにさらに2年を費やしている。よっぽどの難業だったようで、佐野氏は泣くのである。泣いて泣いて泣きまくるのである。
実は、ここが本書の一番面白い部分でもある。引用してみよう。
「ただただこの長い日記をひたすら読み込んだ者の立場から言わせてもらえば、倉富日記の記述は、重複がきわめて多いせいもあって、死ぬほど退屈である」(P17)
「例えて言うなら、倉富日記を読む作業は、渺茫たる砂漠のなかから、一粒の砂金を見つける作業に似ている」(P18)
「倉富の記録精神は、やはりこの日記を全体としては砂を噛んだようなものにさせている。倉富日記を読む者は、益体もない記述の連続に、いやでもうんざりさせられ、必ず途中で投げ出すことだろう」(P20)
「こうした味気ない記述」(P21)
「ほとんど無味乾燥なこの日記」(P21)
「倉富は(略)、相かわらずどうでもいいようにしか思えないことを、おごそかな文体で述べている」(P38)
「読んでいてじれったくなるほど冗長な原文」(P66)
「修身の教科書にでも出てきそうな倉富の生活からは天才のひらめきも、特異な才能を持つ者が発するアブノーマルな底光りもまったく感じられない。(略)たゆまぬ努力によって該博な知識を身につけた超のつく凡人だった」(P109)
「倉富日記には、(略)くどくどしい言い回しが多く、書き写すのもうんざりする」(P227)
「倉富はなぜこんな埒もない出来事を、誰に読まれるわけでもない日記に書きとめたのだろうか」(P249)
もう、ボロクソである。ここまで酷評されると、そりゃいったいどんな日記なんだろう、とかえって興味がわいてくるというものである。
読みたくなってきたでしょ?
返す刀で、倉富自慢の漢詩についても、情け容赦ない。
「悲憤慷慨の思いだけは伝わってくるが、素人眼にもよくできた漢詩とは思えない。(略)対句仕立ての出来の悪い日めくり格言集を読まされたようで、思わず、吹き出してしまった」(P88)
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。ついに、その舌鋒は倉富の容貌にまで及ぶ。
「倉富の風貌は(略)、村夫子そのものである。倉富の春風駘蕩然とした表情には、緊張感というものが微塵も感じられない。官僚のエリート街道をこの顔で登りつめてきたかと思うと、本人には失礼ながら、その不思議さに頭が煮えてきそうだった」(P101)
そして、佐野氏はついにこんな告白までしてしまうのである。
「ある日曜日、読み終わった倉富日記を朝から晩までパソコンに向かって打ち込む作業を続けた。夜になって一段落したとき、終日かかって書きあげたのが、倉富が執筆した1日分の日記に過ぎなかったことに気づいた。
そのとき大げさでなく、体中に重い鉛をまきつけられて、深い海に沈められるような脱力感を覚えた。(略)正直に告白すれば、その時点でこの仕事をやめようと思った」(P250)
にもかかわらず、7年の歳月を費やして、本書をなんとかかんとか完成することができたのは、
「倉富日記を何とか読み進めることができたのは、(略)刺激的なエピソードが、索漠たる叙述の中に時折現れ、その都度、鞭をあてられるように覚醒させられたからである」(P248)
あくまでも、ボロクソである。
そのような、前人未到の長大な日記を書き記した倉富が最後に書きとめた1行は、昭和19年の大晦日の日付欄にある。
「午後五時{十七時}三十分頃、硬便中量」
硬いウンコが普通の分量、出た。
人の一生というのは、なんだか悲しい、としみじみ思う。
(2008年2月記)