路傍の意地

70歳目前オヤジの、叫びとささやき

井上ひさし著「社会とことば  発掘エッセイ・セレクション」を読む

 

  不思議でしょうがないのである。

  コロナ禍に際して、政府や自治体は日本国民に対して警戒メッセージをいろいろと発し続けているが、なぜ、日本語で伝えようとしないのだろうか? 「ステイホーム」「東京アラート」「高リスク施設」「クラスター」「オーバーシュート」「ロックダウン」などなど。挙句の果ては「GO TOトラベル」ときた。

  できるだけ多くの日本人(とりわけ小さい子供や高齢者)に強くメッセージを伝えねばならないときに、なぜ外国語を使うのだろうか? 

  正気の沙汰とは思えない。

「ステイホーム」と初めて耳にしたとき、犬じゃあるまいし、と思った。要路に、怪しむ人はいなかったのだろうか? 敗戦を機に日本は米国の属国と化したが、それがいよいよ内面化された一兆候なのだろうか?

  もし、フランスやドイツや中国で国家的標語が英語の外来語で書かれたとしたら国民は黙ってはいなかっただろう。

  こんな時、日本語に厳しかった井上ひさしさんが生きていたらどう言っただろうかと思っていた矢先、本書が出た。これまで単行本に収録されなかった随筆をまとめたものだが、これによって、08年当時、すでに大野晋さんは「<外来語の氾濫が心配である>という哀しみにも似た憂い」を持っていたことを知った。ある会議で、役人の「このたびのライブラリーのリニューアルについては、コミュニティーとのパートナーシップを重視しよう」という発言を聞いて暗澹たる気持ちになったらしい。丸谷才一さんも「意味が曖昧なままに外来語で考え、外来語で話し合うと、その答えはますます曖昧なものになりますよ」と案じている。私見では、外来語の浸食はIT革命によって加速したようにも思える。

  ちなみにフランスは91年にトゥボン(TOUS BON)法なるものを制定。「この法律の中には『商品名や宣伝文にもフランス語を使うこと』という一条があるとのこと。もちろん違反者には、罰金(百万円ぐらい)、あるいは懲役(二年ぐらい)が待っているそうだから、フランス人も必死なのだ」と井上さんは書いている。

  続けて辛辣に「カタカナ大好きなお役人と並んで日本語紊乱軍の先頭にいる」のはJRだと怒る。じつに珍妙な名前の列車が日本中を走り回っているからだ(96年当時)。

「快速さわやかウォーキング飯田号(東海道飯田線)、ナイスホリデー近江路(東海道本線)、サンダーバード(特急スーパー雷鳥のこと)、シーライングラシア(東北・石巻気仙沼線)、スーパーホワイトアロー号(函館本線)ビバあいづ(喜多方-郡山)、SLあそBOY(肥後本線)……」

「いったいにJRの列車名は(……)、漢字地名は読みやすくするために平仮名にして、それにハイカラ味を出すためにカタカナの(ときにはアルファベットのままの)英語を付けるという原則で命名されているようだ。云ってみれば、平仮名のぼた餅を頬張らせておいて、同時にカタカナ英語でビンタを張るやり方、どちらも無用である。」

  正岡子規は必死になって野球用語を訳出した。「死球、四球、満塁、飛球、打者、走者などみんな彼の訳語である。その上、日本で初めての野球の和歌を詠み、野球の小説を書いた」ではないかとも。

  本書はもちろん外来語禍以外にも社会や日本語についてのいろいろな知見や意見に富んでいて楽しい。例えばヒゲだが、「上唇のものは髭(し)、下唇のものは鬚(しゅ)、頬の物は髯(ぜん)」なんだそうである。

またしばしば死への恐怖と洞察が語られるていることも興味深い。 

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2020年8月 月刊「hanada」に寄稿したものです