路傍の意地

70歳目前オヤジの、叫びとささやき

大久保千広さんの写真集で思い出す 「週刊文春」での熱い日々

 

 奈良県桜井市に住むフリーカメラマンの大久保千広さんは、昭和23年、三重県生まれ。27歳の頃に報道カメラマンの仕事をスタートし、数年前に現役を引退した。

 現役時代に撮影した何枚かの写真を、たまたま知人の新聞記者に見せたところ、「こんな貴重な写真を一人で温存してるなんて文化的罪悪ですよ」と叱咤され、写真展の開催を思い立った。写真展のタイトルは<あの顔、あの時代。 昭和から平成を撮る。週刊文春グラビアとの三十五年>。

 そのタイトル通り、大久保さんは関西を本拠地にして、週刊文春の写真ページを三十五年の長きにわたって撮影し続けてきた。その内容は実に多岐にわたる。ちょっとかいつまんで紹介してみると、昭和60年の阪神優勝日航機墜落事故生存者取材から、阪神淡路大震災和歌山毒カレー事件、神戸児童連続殺人事件、阪神野村監督大騒動、橋下徹知事・市長選挙などなど。大久保さんは、西日本の大きな事件や事故の現場や記者会見には必ず足を運んでいたのである。

「写真展で写真を見た人たちが、『ああ、あの時はこうだった、ああだった』と懐かしそうに話を始めるんですよ。自分の人生と写真に切りとられた時間とを重ね合わせて写真を見ている。ああ、これも写真のチカラなんだなあと思い知らされました」(大久保千広さん)

 そんなことがきっかけとなって、今回の「写真集 あの顔、あの時代。」(青心社刊)の出版となったのだが、そのページを繰りながら、筆者もまた何とも言えぬ懐かしい気持ちに浸らされた。

 というのも、今から31年前の1989年、筆者は週刊文春グラビア班のデスクになり(時の週刊文春編集長は花田紀凱氏)、以来足掛け6年、大久保さんと多くの仕事をしてきたからである。

  この時期の週刊文春グラビア班は、編集者もカメラマンも実に多士済々であった。編集者としては勝谷誠彦(後に退社して著述業に従事しつつ、多くのテレビ番組に出演。兵庫県知事選に出馬するも落選。18年逝去)や柳澤健(後に退社してノンフィクション作家に)、菊地武顕(現在は週刊朝日に)らがおり、カメラマンには不肖・宮嶋こと宮嶋茂樹や新宿群盗伝で名を馳せた渡辺克巳萩庭桂太(今ではポートレーイティストの大家)、佐藤英明(本誌の連載、蒟蒻問答の両巨匠の迫力ある?顔を毎月撮影している)など、実ににぎやかな顔ぶれがそろっていたのである。この一癖も二癖もあるメンバーが毎週毎週、あれを撮りたい、これを取材したいと迫ってくるのだから、デスクはその交通整理にてんやわんやだった。

 デスクとして最も腐心したのは写真のデキはもちろんのこと、タイトル付けだった。写真にどんな見出しをつけるか。それによって、記事が生きたり死んだりするのだ。

 たとえば、真夏には必ず、ビキニの女性がプールのウォータースライダーを滑り落ちてくる写真を掲載した。そのタイトルが、「恒例 納涼 流しウーメン ああ、マタやってきた恐怖のウォータースライダー・ハシゴ企画」というもの。デスクとしては会心の作だったが、残念ながら女性陣にははなはだ不評だった。

 アルバニアの貨物船が1万人の難民を乗せてイタリア南部の港に到着した。甲板に鈴なりの難民たちは次々と海に飛び込み、大混乱。そのタイトルが、「救いはどこにアルバニア」。これも会心作だったが、不謹慎であると大変不評だった。

 平成2年の総選挙には議員の二世が多数立候補。これを受けて、「総選挙目前 二世新人候補大集合 息子も立つ」とやって当の候補者の方々の不評をかった。なにしろ女性候補もいたもので……。

 平成元年、伊東周辺で群発地震が発生。それのみか伊東沖で噴火まで起きて、客足はパッタリ途絶えた。で、つけたのが、「伊東に行くなら今や ハトヤはヒマや」。これはお分かりいただけているだろうか。「伊東に行くならハトヤ ハトヤに決めた!」というCMソングのパロディであることを。なかなかの会心作だと思ったのだが、当然のことながら、ハトヤは怒った。いたしかたないことである。

 平成2年の春、韓国では国民の不満が高まり、大規模なデモや火炎瓶を投げたりの暴動が起き、全土に緊張が走った。その時つけたのが、「コリア大変! 盧泰愚大統領来日直前のソウル騒擾。いったい韓国はどこに向かうのか」。これに韓国大使館が怒った。電話をかけてきて「なめてんのか。ちょっと大使館に来い」と言う。こんな機会はめったにないので喜んで大使館に出かけた。別にナメてはいない。毎週毎週、タイトル付けにどれだけ苦労していると思ってるんだ、という話を一生懸命したような記憶がある。

 写真もないのに、タイトルだけ先に思いついてしまった場合もあった。坂本堤弁護士一家が忽然と姿を消した平成元年のこと。後にオウム真理教の信者による殺人事件だったことが明るみに出るのだが、当時はまだ判明していなかった。不気味な新興宗教団体、オウム真理教山梨県の上九一色に高い塀を巡らせた広大な本部を構えていた。そこで思いついたタイトルが「富士山麓にオウム啼く」。不肖・宮嶋こと宮嶋茂樹と数人のカメラマンに塀の中の写真を撮影してくるように頼んだ。私は、「遠くに富士山なんか見えたらいいなあ」と呑気な声で言い添えた。宮嶋らは早速2トントラックをレンタル、高い脚立を用意して早朝、現地に向かった。宮嶋が語る。

「脚立の上に立って中を覗き込んでいたら、中から白い衣装を着た信者が何人もばらばら出てきて威嚇してきたんですわ。うわー、えらいこっちゃとすぐに富士宮署に電話して助けに来てもろて。怖かったですわ。威嚇してきた連中を撮影していたので後でプリントしてみたら、新実智光岡崎一明が写っとるやないですか。彼らは後に死刑になっとるんですよ。最後には石井久子や麻原彰晃も出てきて、ビビりましたわ」

 この日の夜、もっとビビりあがるような事態が起きた。自宅に帰った宮嶋は洗濯をしようとアパートの外にある洗濯機のところへ行き、すぐに部屋に戻ったところ、なんとオウムのチラシが玄関先に大量に投げ込まれていたのである。

 もう一人のカメラマンの自宅マンションではエレベータを降りたところから自宅の部屋のドアまで、ドロドロの足跡がこれ見よがしにつけられていた。

 そして、私はというと、夜2時ころ自宅に帰り、マンション1階の郵便受けをチェックしたところ、中からどさりと分厚いオウムのチラシが出てきたのである。ぎょっとして他の家の郵便受けを覗いてみるが、何も入ってはいない。私の郵便受けにだけ大量に突っ込まれているのである。その日のうちに三人の自宅が割られていたのである。

「富士山麓にオウム啼く」企画が早々に中止になったことは言うまでもない。

 大久保さんに申し訳ないことをしたなあ、と謝りたくなるようなタイトルもある。琵琶湖畔のリゾートホテルをダイナマイトで爆破して解体撤去するというイベントがあった。撮影も文章も大久保さんに頼んだ。大久保さんはカメラマンの中でも文章がズバ抜けてうまかった。記事を引用する。

<「ドォーン」という轟音が鳴り響き、土煙がもうもうと上がる。が、それも一瞬のこと。

「なんや、もう終わったんかいな~」

 朝から高台に登ってビル爆破を楽しみにしていたオバはんはブ然。見事にシャッターチャンスを逃したカメラマンは一言、

「あかんワ」

 僅か四秒でドラマは終わってしまったのだった。・・・・・>

 これにつけたタイトルが、「雄琴ソープ嬢も呆れた アットいうま間の爆発劇」。いや、ほんと、大久保さん、その節は、申し訳ありませんでした。

 

 報道カメラマンが精神的、肉体的につらいのはまずは現場に行かないと仕事にならないことである。弾が飛んでこようが放射能が降ってこようが、現場に駆けつけなければ仕事にならない。これがいかに辛いことか。そして、被写体のみんながみんな喜んで迎えてくれるわけでもない。いや、むしろ、怒りをかうことの方が多いくらいである。

 平成三年五月、滋賀県信楽町で、信楽高原鉄道信楽発貴生川行きの普通列車JR西日本の京都発信楽行きの快速列車が正面衝突。死者42名、負傷者614名の大惨事が起きた。

 大久保さんは、週刊文春からポケベルで呼び出され、「すぐに現場に行ってくれ」という指示を受ける。

 大久保さんが書いている。

信楽の現場に入って適当なところにカメラを据えた。

 もう薄暗くて現場の様子はよくわからないが、まだ負傷者が中にいるらしいことは分かった。

 それから一時間も現場にいただろうか。泊まるところはない。タクシーの運転手さんに事情を話して了解してもらい、その日は車中泊と決まった。

 その前にひと仕事。遺体安置所の撮影だ。イヤな仕事だ。場所はすぐに判った。続々と白木の箱が運び込まれてくる。

 もう辺りは真っ暗だがストロボを炊くわけにはいかない。それでも一人、二人の遺族は撮った。

 突然襟首を引っ張られ、ビンタを一発くらった。

三十五、六の人だった。僕は何も言わずただ頭を下げた。

 その人は僕をひと睨みしてどこかへ行ってしまった。

 不思議と頬の痛さは感じなかった。>

 また、こんなこともあった。

 平成七年の阪神淡路大震災のとき。週刊文春編集部より電話が入る。「遺族の写真を撮ってほしい」と。

<僕は「被災者の神経を逆なでするような写真は撮れません」と猛反発した。(中略)

 翌日は遺族がいるという避難所を訪ねた。一カ所目は遺族が留守で空振り。二カ所目は四十歳前後のご夫婦だ。中学生の娘さんを亡くされている。取材のお願いを始めたら、一瞬にしてご主人の顔色が変わった。僕の胸倉を掴んで、「オマエなあ」と後は言葉にならない。「帰ってください」と奥さん。僕は頭を下げて、帰ってきた。

 小さな公園のベンチで休んでいると、「仕事か?」と声がかかった。五十をいくつか超えたおじさんだった。一通りの経緯を愚痴るとおじさんが言った。「家内が死んでん。明日その場所片付けに行くから、来るか?」と。仰天した。おじさん曰く「ひとつだけ頼みがあんねん。卓上のカセットコンロとガスを貰われへんやろか」と。>

 もちろん、大久保さんの仕事のすべてがこんなに辛いものなわけではない。おもわず微笑んでしまうものや、しんみりしてしまうものなども多い。

 写真集を1ページ1ページ繰ってみると、懐かしい顔や事件がぎっちりと並んでいる。

79年、落馬の後遺症と戦い、懸命にリハビリ努めるに福永洋一さん。

86年、卒業証書を手にするPL学園の清原と桑田。

87年、大阪場所で優勝、鯛を手にして喜ぶ北勝海

88年、ダイエーに身売りの決まった南海ホークス最後の試合を淋しそうに見守る鶴岡一人元監督。

89年、山口組四代目の竹中正久組長の法要。

90年、「11PM」最後の収録に歴代ホステス大集合。

92年、脳挫傷で入院中だった横山やすし、98日ぶりに退院。

93年、統一教会合同結婚式に参加した桜田淳子が映画の試写会に。

94年、愛知県の豊山町の町民栄誉賞を受賞して笑うイチロー

97年、酒鬼薔薇事件の被害者、土師淳君の葬儀。

99年、御堂筋をパレードする、ワイセツ裁判でノックアウト寸前の横山ノック大阪知事。

09年、85年の阪神優勝の際に道頓堀川に投げ込まれたカーネル・サンダース人形がボロボロになって発見される。

12年、享年80。「11PM」の司会で知られた、作家の藤本義一逝去。

 どの写真も懐かしいものばかりである。

 先にも書いたが、報道カメラマンは、何が何でも現場に駆けつけないことには仕事が始まらない。何をしていようと、どこにいようと、連絡が入ったならばカメラ機材を手に、一目散に飛び出していかねばならない。

昭和の終わりから平成にかけては、“働き方改革”やら“ワークライフバランス”などというやわな労働環境などどこにもなかったのだ。いつも、“24時間働けますか”と挑発されているような時代だった。携帯電話が登場するのはもう少し後のことで、みんなポケベルを肌身離さず身につけ、一旦緩急あれば、すべてをなげうち、飛び出していった。ライバルに遅れをとることなど決して許されなかったのだ。

 大久保さんの写真集の1ページ1ページには、そんな報道カメラマンの汗と涙と意地ががみなぎっている。

 あとがきの最後に大久保さんはこう書いている。

<今は結婚して3人の子の親となった娘は、小さい頃一緒に遊んでいる時、ポケベルがなると途端に顔色が変わった。そんな娘に親らしいことは何もしてやれなかった。それだけは申し訳ないと思っている>と。

 それは週刊誌報道に携わるものの業のようなものと言えばそれまでなのだが、長く週刊誌に携わった筆者にも、そのやるせない気持ちがよく分かり、この一節に接すると、すこし泣きそうになる。

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月刊「hanada」2020年5月号に寄稿したものです。

 

金達寿著「日本の中の朝鮮文化」を読む

 かねてより、おかしいな、おかしいなと思い続けていた。 

   週末、自家用車を運転して、関東のあちこちのゴルフ場に行く機会が多いのだけれど、郊外の、その地名標識を眺めながら、「これって、どう考えても日本語じゃないよなあ」と思うことが結構多かったのである。 

  たとえば埼玉県にある嵐山GCに行くときには、東松山でICを下りて、新郷を左折、唐子、上唐子を曲がるのだが、「唐子」というのはどう考えても日本の地名ではない。というか、この地名が生まれた時に、この地域は、明らかに半島や大陸から訪れた人々の居住地域だったに違いない、と思われるのである。

   あるいは、五日市CCに行く際には、「あきるの市」を通過する。この「あきるの」というのも絶対に日本語ではない、と思った。住居表示は平仮名で「あきるの」だが、近くにある神社は「阿伎留神社」と表記する。音を聞くだけで、日本語じゃないなあ、と思わざるをえない。

   あるいは、千葉で「酒々井」という地名が「しすい」と発音するのだと知って、これも日本語としては奇異な読み方だと直感した。

   しかし、関東圏のこんな田舎に渡来人が住んでいた、というのも妙な話であるなあとも思い、自分のそんな推測を打ち消し、以後そう考えたことさえもすっかり忘れていた。 

  ところが最近、古本屋さんで「日本の中の朝鮮文化」(金達寿著 講談社 昭和45年刊)という本を見つけて読んだところ、先に書いた自分の直感が正しかったことを知って驚いた。しかも同書には「唐子」「あきるの」の地名が半島からの渡来人の居住地域であったと明言されているのである。たとえば埼玉県の「唐子」については、

 <(・・・・・)河田楨『武蔵野の歴史』にこう書かれている。唐子という地名は七世紀に遡る帰化人の末に関係があり、朝鮮式の横穴古墳の存在もある。 

  そしてこの唐子付近には、須恵器(朝鮮式土器)と関係のある須恵や今宿というところもあるが、東松山には新漢(いまきのあや)の高貴を祀ったものといわれる高負古(たかふこ)神社があり、またここには、若いハイカーたちのあいだも有名なものとなっている古墳群の吉見百穴がある。>(P125)

 

  また「あきるの」に関しては、

 

<(・・・・・・)須田重信『関東の史蹟と民族』にこんなことがみえる。

   狭山の西南方面、多摩川から秋川が分かれるあたりを秋留(アキル)と称し、その西方五日市町の松原ケ谷戸に阿伎留(アキル)神社がある。延喜式の古社である。大物主神を祀る。アキルは朝鮮語で解すれば前の路となる。当時の武蔵府への前の路とも伝えるし、陸奥(ミチノク)即ち路の奥に対して「前の路」なる造語も許される訳である。>(P126)

  この「日本の中の朝鮮文化」という本は、金氏が独自に行った学術的調査を書物にまとめあげたものではなく、その手の本や資料を縦横に渉猟しつつ、関東に存在する、半島からの渡来人ゆかりの地を、氏が自らの足で訪ね歩くという紀行文の体裁をとっている。そういうわけで、やたらに引用の多い、というか、肝心の部分はすべて引用、という形の書物となっている。

  だから、先に引用した文章もほとんどが引用、つまり引用の引用というややこしいことになってしまっているが、そのことに慣れてしまうと、同書のなかには驚くべき知見があちらこちらにちりばめられている。「えっ? そんなこと、日本史の授業で習わなかったよ」というような。そんな一節をランダムに拾ってみるとこうなる。

 

<「朝鮮帰化人の移住が盛んに行われ」たのは当時の埼玉郡のみでなく、武蔵の一部である現在の東京や、他の関東地方も同様であったが、日本の歴史文献によって主なものをひろってみると、こういう具合である。

  まず、『続日本紀』の716年、霊亀2年5月条のいわゆる1799人の高麗人についてはさきにみたとおり(「甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の高麗人1799人を以って武蔵国に遷し始めて高麗郡を置く」)であるが、ついで、というより、すでにそれ以前、『日本書紀』666年の天智5年に、それまでは大和で「官食を給していた百済の僧俗2千人余人を東国に移した」とある。(・・・・・)ついで758年の天平宝字2年8月には「帰化新羅僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国の閑地に移し個々に初めて新羅郡を置く」とある。>(P62)

 

<(狛江古墳の中でもとくに大きい「亀塚」の発掘調査では、明らかに半島文化の影響を認めることができる) どころか、それは古代朝鮮文化そのものであったと私は思うのであるが、そうして武蔵(東京都・埼玉県)全体についてみるならば、南部のこちらからは、「調布」「砧」「染地」などの地名にもみられる繊維の生産がおこるとともに、この武蔵野一帯はのちしだいに馬の放牧もさかんとなった(・・・・・)。

  中島利一郎『日本地名学研究』によると、東京の世田谷や早稲田にある弦巻や鶴巻にしても、本来はその表記の漢字とは関係なく、これらはいずれも朝鮮語ドル(原野)牧、すなわち馬の放牧地であったということからきたものであるといわれる。馬を、日本語では駒(こま・高麗)といっていたことからもわかるように、この馬もまた朝鮮渡来人のもたらしたものである(・・・・・)。>(P100)

 

<日本各地いたるところにある新羅神社だの百済神社、それからまた韓国神社、許麻(こま・高麗)神社などというのも(渡来人が日本各地に群居した・・・・・)結果で、これらがいまだにそうした朝鮮の名称をのこしているのは、彼らがいかにこの地にたくさんつくったかということの証左でもある。>(P104)

 

<武蔵(東京都・埼玉県)ということがそれの産地であった苧(からむし・韓モシ)という麻の種子、すなわちモシ・シからきたとする須田重信『関東の史蹟と民族』にはこうある。

  ムサシのムサの地名は関東には外にもある。先づ上総の国には武射郡があり、すでにこれは郡名となっている。尚ほ山辺郡の郷名に武射がある。更に関東には麻に関係した地名は中々多い。(此処で一寸説明しておくが上総、下総のフサは麻の古語である)即ち麻羽、麻布、麻績、麻生等々である。>(P194)

 

  あまり長々と引用ばかりしていてもきりがないからこのくらいでやめるが、同書を読むと、関東には古代より半島からの渡来人が多く住み着いたため、地名、神社名、人名に朝鮮由来のものが驚くほど多く存在していることがわかる。初めて教えられることも数多い(日本の義務教育ではなかなかここまで詳しくは教えてくれないので)が、その中でも、<だいたいそもそも、尾崎喜左雄氏のいうように、「古墳自体がその成立は朝鮮の文化によっているのである(・・・・・)」>(P198)というくだりには目から鱗が落ちた。

 

  ええ、そうだったの? 古墳というのは日本の天皇のお墓だとばかり思っていたのに、そもそも古墳という墳墓自体が朝鮮文化の産物であり、そこに眠っているのはほとんどが朝鮮から渡来した王族なのである、というのである。知らなかった。考古学的には現在どのような定説が主流となっているのか知らないが、なるほど日本のの文科省はそのあたりのことを積極的には教えたがらない理由もなんとなく分かる。

 

  古代、自分が大陸や朝鮮半島に住んでいたとする。もちろん紀元前、昔々の大昔である。その時、飢饉や戦乱など、不測の事態が出来してその地に留まることができなくなったときどうするか。敵が押し寄せてきて、どこかに逃れなくてはならなくなったらどうするか。そんな切羽詰った状況に置かれれば、おそらくは家族を引き連れて、成功するかどうか分からない、エキソダスを試みるだろう。

 

  船に乗って、はるか南に大きく広がる島に逃げるであろう。もちろんその頃にはその島に日本列島という呼称もなければ、人さえろくに住んでいなかっただろう。海に隔てられたかの島は逃亡先としては最適だったに違いない。大陸や半島だけではない。南の島々からも流れ着いた人々もいただろう。

 

  いってみれば大昔の日本列島は、東南アジアの吹き溜まり、避難民のアジールだったのではあるまいか。つまり渡来人が渡ってきたのはなにも西暦5,6世紀だけのことではなく、先史時代から次々とあちらこちらから渡来人がやってきていたのではないか、という感想をこの本を読むと持たざるを得ない。

 

  極論すれば、現在日本人と呼ばれる人はすべて渡来人である。1万年前に来て住み着いた渡来人の末裔もいれば、1500年ほど前に渡ってきた渡来人の末裔もいる。そのすべては遺伝子的にシャッフルされてもはや出自は分からぬようになってしまっているが、どの人もこの人も、早く来たか遅く来たかの違いだけで、すべて渡来人なのではないか。

 

  通勤の電車の中で前のシートに座る見ず知らずの乗客の顔をつくづくと眺めると、我々は全員が「日本人」だと思い込み、これは日本人の容貌をしている、と無根拠に納得しがちだが、よくよく顔を見つめてみると、そこにははなはだしいバリエーションがある。朝青龍のような顔もあれば、金正日みたいな顔もある。ペヨンジュンみたいな顔もあれば林家ペーみたいな顔も、あるいは玉木宏みたいな顔の人もいる。日本人として、とてもひとくくりにはできない多様性があるように思う。それも我が国の位置が、東南アジアの吹き溜まりなればこそなのではないかと思わないわけにいかない。

 

  同書には、しばしば「朝鮮からやってきた帰化人が・・・」という表記が見られるが、この「帰化人」という言葉にも違和感を覚えざるを得ない。我々が理解する「帰化」とは「日本国籍でない人が日本国籍を取得すること」である。しかし、その意味で、当時の渡来人たちは「これから日本人になろう」と決意したのだろうか、という疑問は残る。だって、まわりじゅう渡来人だらけで、確かにずいぶんと早く来た人もいるので言葉が通じなかったりしたこともあっただろうが、全く違う国に紛れ込んでしまったという感覚は少なかっただろうと思うからだ。

 

高句麗百済馬韓の発展したもの)、新羅辰韓の発展したもので、のち弁韓の駕洛・加羅をあわす)といった朝鮮の三国時代が形成されることになるのは、1世紀のはじめごろであるが、7世紀の668年にいたって南方の新羅がこれを一つに統一した。その過程をつうじてすでに多くのものが日本に来ているけれども、のち百済とともに高句麗が亡び、遺民の多くは地つづきであった満州へ入って渤海国を打ちたてることになる。が、その一部はまた海を渡ってこの日本へやって来たものであった。>(P33)

 

  私が、赤坂の韓国クラブへ行くと、ホステスからいきなり韓国語で喋りかけられ、「いやいや、私は韓国語が分からないですから・・・」と制止しても、「なにしらばっくれてるのよ。顔観りゃわかるわよ」とあくまで韓国人として遇されるその理由も、80歳になる母親が、どうみても韓国映画に出てくるおばあちゃんにそっくりなのも、親戚のおじさんがチョーヨンピルに似ているその理由も、きっとそういうことなのだろうと、深く理解できてしまうのである。

不肖・宮嶋の「自衛隊レディース」

 不肖・宮嶋こと、カメラマンの宮嶋茂樹氏が、ご自身の新著を手渡しに来てくれる。
 新著は写真集で「自衛隊レディース」(イカロス出版)という。

http://secure.ikaros.jp/sales/mook-detail2.asp?CD=D-102
   その謳い文句は以下の如し。

<『カメラマン不肖・宮嶋、満を持して堂々世に送る』。 思い起こせば13年前、女性自衛官がまだ「婦人自衛官」と呼ばれていた頃、不肖・宮嶋、北から南まで飛び回り、全国の大和撫子自衛官を撮りまくった、あの伝説の傑作写真集が、21世紀を迎えた今まさに、満を持して、復活を遂げた! しかも今回はただの自衛官やない、すべて「空飛ぶ大和撫子」たちである。 ある者はP-3C哨戒機の左席に座り、ある者はC-1の機長を務め、またある者はキビシイキビシイ教官として男子学生をビシバシ鍛える。命がけの救難救助ミッションに敢然と立ち向かうヘリ・パイロットの凛々しい横顔、かと思えばスッチーに見まごう政府専用機の麗しい乗務員たち。さぁさぁ、そこらのギャルにうつつを抜かしている場合ではない。有事となれば一瞬の迷いもなく国防のため飛び立つうら若き乙女から、真実の戦いとはなにかを学ぶ時がきた。 今こそ、不肖・宮嶋のレンズの前に立つ憂国の美女たちの声を聞け。 さぁ、覚悟はできたか!? > 


   いいねえ、相変わらずの宮嶋節。衰えを知らぬ愛国エンタメ感が何よりも素晴らしい。写真集をぱらぱら見ていて、あることに気がついた。
「あれえ、今回は水着写真がないの?」
  宮嶋氏、口をとんがらかして、
「何をいうてまんねん。もう、そんな時代とちゃいまっせ。そんなセクハラ写真、撮れますかいな」
  今回の写真集は、自衛隊からのお声がかりによって成立したという。不肖・宮嶋の、これまでの信じられぬほどの活躍(戦地取材はもう、ここに書ききれぬほどなので、興味のあるかたは、宮嶋氏の著書をお買い求めください)を、自衛隊は正しく評価しているのであろう。あるいは、その真実の姿をまだ、よく認識していないのかもしれない。いやいや、そんなことは、あるまい・・・・・。
「あれえ、女性自衛官も男性自衛官も、おんなじ制服なの? ほら、股間のこの変なところにジッパーの引っ張るところがプラリンと・・・」
「また、しょうもないことによう、気がつきまんなあ。あんた、どこ見とんですか。一緒。男も女も制服は一緒ですわ」
「えええ? だってトイレのときに困るでしょ。男性は簡便だけど、女性はこんな格好だと、感単に用も足せないのでは?」
「緊急時の小用のときは、男性用にはポコッとつけるマスクみたいな簡易トイレみたいなもんがあるんですけど、女性用はないっ」
「ない!? どうすんの、女の子は」
「垂れ流し。そのまま、じょじょーと」
「そのまま、じょじょー!」
「そうです。ディズニーランドに遊びに行っとるんと違うんでっせ。戦場にいて、生きるか死ぬかの戦いをしているんでっせ。もう、羞恥心もへちまもありまっかいな。当然、じょじょーです」
「ああ、そんなもんですか。じょじょーですか」
アメリカでもフランスでもじょじょーです」
  この手の知識については、宮嶋氏、恐るべき該博で、一緒に戦争映画など観にいったら、出てくる武器や戦車、戦闘機、制服について、ひとくさり能書きを聞かせてくれるので、退屈しない。
   その氏が、「じょじょー」だというのだから、きっと、「じょじょー」なのであろう。


   宮嶋氏、続けて、「低酸素状態の体験」について、面白い話を披瀝してくれた。自衛隊の戦闘機に同乗するには、それに耐えうる能力があるかどうか、その適正を事前にテストするのだそうだ。
    ご存知のように、ヒマラヤ山頂ははなはだしく低酸素で、酸素ボンベなしでは運動能力も知能も急激に低下する。戦闘機が飛行するのは、それよりもさらに高高度である。
「個室に入れられて、気圧をどんどん下げる実験をするんですわ。まあ、すこしづつでっさかい、だんだんに慣れてきます。で、紙と鉛筆を手渡されて、そこに、1000からひとつづつ少ない数字を書け、と言うんですわ。
  1000、999、998 と書くわけです。何をしょうもないことさせるんや、なめとんかい、こんなん、簡単やないか、とすらすら書く」
  で、実験室から外に出てから、自分が書いたその紙を手渡される。
  宮嶋氏、それを見て、びーーっくり!!!
「1000、999、998までですわ、おうとるんわ。後はもう無茶苦茶。998からいきなり940に飛んでたり、でたらめなことが書かれてまんねん」

  もうひとつの、面白い体験もご披露。
「もうひとつ、狭い部屋に何人も押し込まれて、徐々に空気を抜かれて、低気圧に対する耐性をテストされるんですわ。もちろん、酸素マスクをつけてまっせ。せやなかったら、死んでしまいますがな」
  誰でも経験があるに違いない。高速エレベーターで上階に昇ると、鼓膜が裏返ったようになるのを。体内の気圧が、対外の気圧よりも高くなり、鼓膜が内側から押されてペコポンとなったような感じがするのを。同じような感覚は飛行機に乗ったときにも味わうことがある。
  これが急速に起きると大変なことが起きる。体内の圧力が体外のそれに比して急激に高まり、内側から爆発してしまうのである。
  深海に棲む魚を一気に釣り上げると、手元に来たときには、口から内臓をはみ出させて悶死しているが、それも同じ理屈である。
「すこしづつすこしづつ気圧が下がっていくんですよ。そうするとですね、腸の中の気圧が高まって、自然にスーっと抜けていくんですわ。何が、って、ガスですよ。おなら」
「実弾は出ちゃわないの」
「また、汚いことを。そんなもん、出まっかいな。きゅっと締めてますがな。きゅっと。にもかかわらず、その辺の小さな隙間からすこしづづ、ガスが出て行くわけです。で、テストが終わって、試験官が、はい、では皆さん、酸素マスクをはずしてください、というんです。命令に従って、素直にマスクをはずしたら・・・・・・・、くっさーーーーーー! ものすごい臭いんですわ、おならが充満。12畳くらいの部屋に十数人がひしめき合って、全員が腸からガスを全部出してるから、もう、臭いのなんの、もの凄いにおいでっせ」
  尾籠な話で申し訳ない。しかし、私はこの手の話がなぜか、大好きなのである。宮嶋氏と話をすると、往々にしてこんな話になってしまう。(2008年2月記)
   

あんた、何者?

    文春新書から出ている、内田樹氏の「寝ながら学べる構造主義」を読んでいると、いかに自分の頭が悪いかが、しみじみと分かって楽しい。


 ほとんどマゾのような気分にさえなってくる。足の指が痒いのに、ブーツを履いているために、かくこともままならず、そのまま我慢し続けなくてはならないような、胃袋の上のほうがジワーっと熱くなってくるような妙な感覚である。


 この薄っぺたい新書には構造主義を代表する何人かのフランス人学者が濃縮コンクで詰め込まれている。彼らの言説のいくつかが引用されているが、情けないことに読んでいるといらいらしてくるのである。
 どうしてフランス人の学者というのは、こんなに分かりにくいことを分かりにくく書くのであろうか。何かうらみでもあるのか、この野郎、と怒鳴りつけたくなってくるのである。もし許されるなら、ここに登場する哲学者、ソシュールフーコー、バルト、レヴィ=ストロースラカンを横一列に並べて、「歯を食いしばれ、この野郎!」と怒鳴りつけて、往復びんたをくらわせたい、という野生な衝動が湧き上がってさえくるのである。


 おそらく、彼らは、自身が主張する事柄を万人に分かってもらおうという気持ちはさらさらないに違いない。むしろ、万人に分かってもらえるように書くことによって損なわれてしまう繊細な思考、とでもいうものがあると確信しているに違いない。そうとしか思えない。理解できる人間だけに理解してもらえればよい。


 もっというと、難解に書くことによって、読者を選定している、のかもしれない。1次予選、2次予選、準決勝を勝ち残った者だけが決勝戦に出場可能。足切りをした後に、有力者同士で、頭脳の勝負をしようじゃないか、と。


 前置きはこのくらいにして、内田氏の本から難解ぶりを抽出してみよう。前後の脈絡なく引用するので、ますます分からなくなっているのが、実に楽しい。
 内田氏はソシュール構造主義の始祖と位置づけ、その後に、構造主義四銃士が居並ぶ。その最初の銃士、ミッシェル・フーコーから。


<17世紀になって、狂気はいわば非神聖化される。(略)狂気に対する新しい感受性が生まれたのである。宗教的ではなく社会的な感受性が。狂人が中世の人々の風景の中にしっくりなじんでいたのは、狂人が別世界から到来するものだったからである。いま、狂人は都市における個人の位置づけにかかわる「統治」の問題として前景化する。かつて狂人は別世界から到来するものとして歓待された。いま、狂人はこの世界に属する貧民、窮民、浮浪者の中に算入されるがゆえに排除される。>(「狂気の歴史」)
 まあ、なんとなくはわかりますわね、まだ。「かつて狂人は神聖視されていたけれど、17世紀になって、社会的に認めがたい人として排除されるようになった」ということでしょ。そう書けばいいのにねえ。


 次、ロラン・バルト君、前へ。
<テクストはさまざまな文化的出自をもつ多様なエクリチュールによって構成されている。そのエクリチュールたちは対話をかわし、模倣し合い、いがみ合う。しかし、この多様性が収斂する場がある。その場とは、これまで信じられてきたように作者ではない。読者である。(略)テクストの統一性はその起源にではなく、その宛先のうちにある。(略)読者の誕生は作者の死によって贖われなければならない。>(「作者の死」)
  これも、なんとなくしか分からないでしょ。「言葉や文章というものは、それを発した人がそこに、どんな意味をこめたかということよりも、受け手がどう受けとめたかによって、意味が決まってくる」というようなことなんでしょうか? ほーら、ちょっといらいらしてきたでしょ。


 お次は、クロード・レヴィ=ストロース君。
<彼らのうちであれ、私たちのうちであれ、人間性のすべては、人間の取りうるさまざまな歴史的あるいは地理的な存在様態のうちのただ一つのもののうちに集約されていると信じ込むためには、かなりの自己中心性と愚鈍さが必要だろう。私は曇りない目でものを見ているという手前勝手な前提から出発するものは、もはやそこから踏み出すことができない。>(「野生の思考」)
 さあ、これは、なんと言っているのでしょうか? たぶん、「人間性というものは、時代が違い、場所が違えば、まったく異なったものなのであって、これが人間性というものなのだと指し示すことのできる唯一のものはない」ということなんでしょうかねえ。またしても、いらいらしてきませんか。


 さてどん尻に控えしは、泣く子も黙るジャック・ラカン様の登場です。
<まだ動き回ることができず、栄養摂取も他人に依存している幼児的=ことばを語らない段階にいる子どもは、おのれの鏡像を喜悦とともに引き受ける。それゆえ、この現象は私たちの眼には、範例的なしかたで、象徴作用の原型を示しているもののように見えるのである。というのは、「私」はこのとき、その始原的な型の中にいわば身を投じるわけだが、それは他者との同一化の弁証法を通じて「私」が自己を対象化することにも、言語の習得によって「私」が普遍的なものを介して主体としての「私」の機能を回復することにも先行しているからである。>(「私の機能を形成するものとしての鏡像段階」)
 ははは、は。もう、笑うしかないでしょ。こんなことをいっているのかなあ、と想像するのもいやになるくらい、無茶苦茶ですね。筆者の内田氏も、「特にラカンは、正直に言って、何を言っているのかまったく理解できない箇所を大量に含んでいます。」(167ページ)
 そんなに分からない箇所が多いのに、どうしてこの人が構造主義に多大に貢献したということがわかるのであろうか。そこが不思議である。羅漢様、恐るべしである。


 さて、ところで。ある冬の日の夕刻。
青山通りを歩いていた私は、腹がすいたので、表参道近くのラーメン屋に入った。カウンター中心の、安っぽいラーメン屋である。初めて入った店では、その実力のほどが分からないので、いつも、普通のラーメンを頼むことにしているのだが、その日もそうだった。
 と、時を同じくして入ってきた50前後のオヤジがいて、アスパラガスのにんにく炒めと炒飯とビールを注文。ビールをコップに注ぎ、すぐに出てきたアスパラを肴に、旨そうにやっている。ふと見ると、左手に本を持ち、ビールをぐびぐびやりながら、熟読しているのである。このおっさん、ラーメン屋で何を読んでいるんだろうと気になってよーく見ると、洋書である。さらに目を凝らすと、Jacques Lacan と書かれているではないか。
 ビール片手に、アスパラかじりながら、フランス語の原書でラカンを読むとは、「あんた、何者!」と思わず、声をかけそうになった。東京は広い。すごい人がいるもんだと、つくづく思った。
 それにしても、何者であろうか。大学の先生? 翻訳家?
精神科医? いや、そんな勤勉な医者はいないだろうから、先生かね、やっぱり。

(2008年2月記)

「無」について

 週末によく「サミット」に買い物に出かける。そこで、たまたま、「無洗米」と表示されたお米を見かけた。それが、どういうものであるのかは、新聞か何かで読んで知っていた。米を研ぐ必要がなく、水を入れてそのまま炊くことができる簡便な米である。横着な世の中になったものだと、実にオヤジくさい反応がまず、わが頭に去来した。

    昔は、米を器に入れ、冷たい水で静かに研ぐ。数回研いで、白濁が少なくなってきたら、洗った米を炊飯器に入れ、水を適量加えて、しばし寝かせた後に、スイッチ・オン。何回研ぐか、どうやって研ぐかは、米の種類や季節によっても変わる。経験が、うまい飯を生み出してきたのである。

    しかし、もはや、その余地はない。水を加え、スイッチ・ポンである。そのうちに、「乳がでないので米の研ぎ汁を赤ん坊に飲ませた」なんていう文章が、いったい何を言っているのか分からない時代がやってくるだろう。それも時代の趨勢だろうから、嘆き悲しむことではないのかもしれない。すこし、残念な気がするが、炊事の手間が省けてめでたしめでたしと思うべきなのだろう。

    さて、その次にわが薄い頭に去来したのは、「無洗米」という言葉はなんだか、妙な感じがする、ということだった。漢字の「無」は、「ない」を意味する。

「無学」とは、学問が「無い」ことだし、「無免許運転」は免許を「持っていない」のに運転すること、「無銭飲食」はお金が「無い」のに飲み食いすること。「無謀運転」は、ちゃんとした考えも「無し」に運転することである。そう考えると「無洗米」は、「洗浄の無い」米、つまり、「洗っていない米」のことを言うのではなかろうか。「無洗」には、「洗う必要がない」という意味は無いと思う。

    もし、既に洗ってあって、洗う必要がない米のことを言いたいのであれば、「既洗米」か「洗不要米」と呼ぶべきではないのか、うん、絶対そうだ、とレジでお金を払いながら、ぶつぶつと呟いてしまうのだった。(2008年1月記)

広辞苑と「おまんこ」

 

2008年の1月、またしても下らないことを書いていた。早逝した勝谷誠彦についても書いている。今となっては、いい思い出である。

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 最近、「広辞苑」が10年ぶりにヴァージョン・アップして、いくつかの新語が掲載されるようになったという。そうか、旧版から、もうそんなに歳月が流れたのかと月日の流れの速さをしみじみ感じたりしたものだが、その新語というのが、聞けば「ワンセグ」「ニート」「いけ面」「着メロ」などといった、最近生まれた言葉なんだそうである。「スイーツ」などという言葉もあることを、新聞記事で知ったが、おいおいちょっと待ってくれよ、と文句をつけたくなった。だいたい、そんないつ消え去るかも知れない言葉を、しかも、ほとんどの日本人が知っている言葉を追加する必要があるのか、と。

 むしろ、今まさに消え去ろうとする言葉たちをこそ掲載するべきではないのか、と怪訝に感じた。辞書を引かねば、もうその言葉の本来の意味や語源にたどり着くこともできない言葉をこそ、新たに記載すべきではないのか。そんな風に思っていたときに、たまたまテレビを見ていたら、かつて部下だった勝谷誠彦が出てきて、似たような感慨を早口&せっかち&喧嘩腰で喋っていた。同じようなことを考えるんだなあ、と思った。

 が、それにしても、勝谷氏はなんでいつも、学生下宿から寝起きでそのまま出てきたようなもっさりした風体なのだろうか。その服装、ヘアスタイル、物言い、すべてが視聴率を押し下げる働きをしているような気がするのだが、大丈夫なんだろうか。 

 失礼ながら勝谷や、女子ゴルフの不動裕理さんを見ると、なんで関係者は、スタイリストやヘアメイクをつけてあげないのか、と不憫になってくる。不動さんの髪型や眉毛に少し手を入れ、ウエアをなんとかすれば、きっともうちょっとなんとかなったのではないか。いや、ま、いいや、そんなことは。

 勝谷は、兵庫県の勝谷医院の長男として誕生。幼少のころ母上がバレエ教室に通わせていた。とても今の風貌からは想像しえぬいい話である。親の期待を一身に集め、家業を継ぐべく、灘中、灘高に進学するも、いいにくい話だが、はなはだしく落ちこぼれ、医学部進学がかなわぬどころか、担任に青山学院大学文学部に進むと告げて、「か、勝谷、頼むさかい、それだけは勘弁してくれ」と懇願される始末であったという。で、なんとか早稲田の一文に進むが、「医学部進学」の夢は捨てきれず、筑波大学の入試は作文中心だと聞きつけて、勇躍、筑波大の試験会場に乗り込んだ。「僕は文章力には自信があるから」と。が、問題を見て愕然。なんだか分からない化学式がいっぱい書いてあって、それについて記せ、という問題である。退出許可が出る時刻まで、勝谷は額に悪い汗をいっぱいかきながら悶絶していたのであった。かと思えば、東大にも何回かチャレンジしていて、マークセンス方式の回答を快調に塗りつぶしていたらしい。最後の問題に至り、なんだ、ちょろいもんじゃわい、と塗りつぶしたところ、問題はもうないのに、回答欄はもうひとつ余っている。「うわーーーー、どこかで飛ばしたーーーーーー」と、残り時間も少ないので泣きそうになりながら消しゴムでゴシゴシ消し終わったところで、無情のタイムアップ!!

 私は、強面&チック症的な勝谷より、そんな愛すべき一面をもった勝谷が好きである。フリーの風俗記者をこなしながら、そのことを秘密にして文春に入社したものの、配属されたばかりの文春の編集部で、深夜「おまんこ」を大声で連呼して周囲の女性社員のみならず、先輩社員の大顰蹙をかったり、取材に行ったフィリピンでちゃっかりタクシー会社を設立したり、そんな破天荒なところが好きである。

 と、ここまできて、やっとタイトルの「おまんこ」にたどり着いた。そうなのである、新「広辞苑」にこの言葉が新たに掲載されたというのである。東京新聞は、<男性の「おちんちん」「ちんこ」などは収録済みだが、なぜか(略)女性の通称は存在しなかった>と書いているが、これを書いた記者は新版「広辞苑」を手にとって、そんな言葉を一生懸命引いていたのである。しかし、これまで記載してこなかったのに、なぜ、ここにきて載せるのであろうか? 載ってないと困る人でもいるのだろうか。「男性だけでずるい!」と息巻く女性の集団がいたのであろうか。よく分からない。岩波書店の会議室で委員が集まって掲載・不掲載の会議をしたのであろうが、どんな顔をして採決していたのか想像すると、にんまりしてくる。

「おまんこ」話になると、必ず、思い出すラジオ番組がある。今から、27、8年前。TBSラジオで「土曜ワイド・ラジオTOKYO」なる番組があった。その中のコーナーに「素朴な疑問シリーズ」というものがあり、これは言ってみれば「大人の電話相談室」の趣きのあるものだった。メインキャスターは久米宏氏。当時34歳くらい。長身で痩せていて、反骨精神旺盛で、それはそれは面白いパーソナリティだった。この番組には聴取者から素朴な疑問が次々に寄せられる。たとえば、

「寿司屋なんですが、おい、ひとつ握ってくれといわれて、なんで2つ握らなければならないんでしょうか?」

「六日町は発展したら六日町市になるんだから、現在は六日町町と呼ぶべきではないか?」

「犬の足は前足というのに、なんでお手、というのか?」

「処女膜は人間の女以外にもあるのか? あるとしたらなんのためにあるのか?」

 こんな質問が次々に寄せられるのだが、久米氏は電話を握り締め、アポなしで関係者にライブの質問を浴びせかける。そのやりとりがそのままオンエアされるのである。たとえば、最後の疑問を受けた久米アナはすぐに獣医さんに電話。「ホ乳類には全部処女膜はある。だから、1回目のときは、ホ乳類はみんな痛がります」の返事。が、ディレクターが「いや、モグラだけのはずだ」と反論。そこで、上野動物園に電話。「あるのはモグラだけです。他の動物には痕跡程度しかありません」。では、いったいなんのためにあるのか? 産婦人科医に電話。「目的論的に考えると、いろんな黴菌やカビのようなものが中に入り込むのを防ぐんでしょう」。これで一件落着かと思いきや、聴取者からジャンジャン電話が入る。「それなら、性行為をもったモグラは黴菌が入って死んじゃうじゃないか」「人間のメスはパンティをはいているのになんで膜があるの?」とてんやわんや。最後には、新幹線で移動中のドクトル・チエコさん(懐かしい名前だ)にまで電話をかけたりして。挙句の果てには、聴取者の女性から苦情の手紙が。「久米さんは入口、入口とおっしゃるけれど、あれは出口ですっ」

 その番組が、ある土曜日の昼下がり、「おまんこはなぜ、おまんこと言うのか」という疑問に果敢に取り組んだことがあった。

「ニュース・ステーション」で颯爽と喋っていた久米氏の、あの口調を思い出して欲しい。あの調子で、公共の電波に「おまんこ」という単語を明瞭に、屈託なく、はつらつと、乗せたのである。「おまんこの語源は、万古焼にあるともいわれ・・・」と、聞いているこっちがはらはらするほど高らかに、全国津々浦々にアナウンスしていたことを思い出す。

 まだ、ラジオが若々しく、生き生きしていた時代の、信じられないような痛快な昼下がりの話である。

 

 

 

 

エリツィンとタマタマ

 

2008年の1月、やっぱり、こんなくだらないことを書いていた。

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 欧州の有名なウォッチ・メーカーの日本支社長をしていた友人がいた。本社への出張から帰国したばかりの彼と、食事をしたのだが、その時、「いやあ、怖かったよー。本社の社長と一対一で会議室で話し合いをするんだけど、売り上げがはかばかしくない、やる気はあるのか、といってテーブルをバーンと叩くんだ。はい、すいません、次年度は頑張りますから、と低頭すると、社長がすーっと近づいてくるや隣に座って、いきなりテーブルの下に手を伸ばしてきたかと思うと、僕のタマタマをぎゅーっと握るんだよ。おまえ、ほんとにやるんだろうな、ってね。震え上がるよ。ほんとに怖いよ、これは」

 40代の日本支社長は、その感触を思い出してまた身震いするのだった。名前を書けばみんなが知っているそのウォッチ・メーカーの本社社長はユダヤ人だと聞いたが、本当にいい大人がそんなことをするんだろうか、セクハラだかパワハラだかよくわからないが、なんの意味があるんだろうか。私にはとてもそんなことはできないなあ、とその時に思った。想像してみてください、そんなに親しくない男のタマタマ、握れますか? いや、親しくなったら、なおのこと握れませんわね、そんなもの。

 と思っていたら、前にも書いた、佐藤優の「インテリジェンス人間論」(新潮社)の中にこんなことが書いてあって、大いに驚いた。

 エリツィンが大統領だったころ、その周囲ではサウナパーティーが重要な意味をもっていた。一昔前の日本の料亭政治のように重要事項はサウナで決められていたというのだ。エリツィン大統領に会いに行く時の総理・橋本龍太郎に、佐藤優氏が、サウナでの振舞い方を教示するくだりを引用する。

<佐藤 サウナでは白樺の枝で背中を叩きます。酔いが回るとエリツィンは変なところを突っついてくるかもしれません。それから、ロシア人は男同士でキスをします。キスは3回します。右頬、左頬、最後は唇です。

橋本 男同士でキスをするのは気持ち悪いな。

鈴木(宗男) 総理、ここは国益です。それにロシア人は、ほんとうの同志だということになるとアソコを握ってきます。これも「ああ気持ちがいい」といって是非受けてください。

 橋本氏は嫌な顔をして聞いている。鈴木氏の説明に誇張はない。私もロシアの政治家とサウナに入り、イチモツを握り合って約束をしたことが何回かある。旧約聖書にも「手をわたしの腿の間に入れ、天の神、地の神である主にかけて誓いなさい」(「創世記」第二十四章二-三節)と書いてあるので、古代の誓いの伝統がロシアには残っているのだろう。>(P38-39)

 本当なのだろうか。古代からの誓いの儀式なのだろうか。そうだとすれば、先の社長の振る舞いもなんとなく分かるのだが。どなたか、このタマタマ握りの真相についてご存知の方は是非ご教示いただきたい。