路傍の意地

70歳目前オヤジの、叫びとささやき

奈良文化財研究所編『木簡 古代からの便り』を読む

 奈良時代平城京の役所でよく使われていた木簡。日本史の教科書で見たことがあるかもしれない。墨で文字を書きつけた細長いかまぼこ板状のものである。この木簡、古代律令国家の事務運営のためにはなくてはならないものだったが、平城京を中心に、これまで約四十数万点が発掘されている。本書は奈良文化財研究所の研究者たちの手による「木簡入門」とでもいった趣の本。これが実に楽しい。

眺めていると、時空を超えて、まるで平城京で生きていた人たちの息吹が伝わってくるかのようである。千三百年も前に生きていた人たちなのに、ちっとも、私たちと変わらないではないか。

 木簡はまず、諸国から届けられる貢納物の「荷札」として使用された。主にコメや布だが、それ以外にも志摩や安房からはアワビが、駿河、伊豆からはカツオが、能登からはイリコが届いたことが木簡から分かる。どうも当時の平城京に住む人たちはアワビが大好物であったようで、長屋王の屋敷跡からもアワビ十匹の伝票が見つかっている。また、その長屋王の幼い子供が飼っていた犬にコメが届けられたり、「牛乳煎人」に牛乳が届けられたという伝票も見つかっている。「牛乳煎人」とは聞きなれないが、多分、牛乳を煮詰めて「蘇」という食べ物を作った人だと思われる。「蘇」は練乳のようなものかと思われるが、これがよく分からないらしい。

 木簡はまた「習書」に使われた。他の用途に使われた木簡の表面を小刀で削って新品にし、そこで習字の練習をした。ちなみに当時の人たちは達筆である。使っている文字は漢字のみ。超エリートだったに違いない役人たちは、難しい漢字を実によく知っている。「賣」という漢字をいくつも書いた後に、その横に今度は「買」という漢字を練習したりしている。またある人は、「馬」の文字をいくつもいくつも熱心に書き連ねている。いっぱいになるとまた表面を削ってそこに文字を書きつけた。まるで花かつおのような削り屑が平城京のゴミ穴から大量に見つかっている。これまで発掘された木簡の八割は削り屑なのだそうだ。

 木簡はまた律令制を支える記録や文書として利用された。平城京造酒司跡からは酒を請求する木簡が見つかっているが、中には、もう滑稽なほどに頭を低くして酒が欲しいとお願いしているものがある。「恐る恐る謹んで請い申す」とか「酒司の坐す下に、……恩を蒙りて」とか、思わずにんまりせずにはいられない。

かと思うと、急な腹痛に襲われて職務遂行できません、という言い訳の木簡も見つかっている。物品購入してそれを送り届ける仕事があった稲積さん。買ったのは甕が七つ、鍋が八つ、灯明皿百四十三枚。お代は和同開珎十枚。ところが、「稲積は、急な腹痛で納品と報告に参れません……」と書いたあと、本当に激痛が襲ったのであろう、それまでの几帳面な文字が崩れて乱れ、小さなごちゃごちゃの文字で窮状を訴えているのである……。

 またゲームか占いに使用されたのではと思われる木簡も見つかっている。「此取人者盗人妻成」(これをとるひとはぬすっとのつまとなる)。いったい、これ、何に使ったのであろう。

 さて多種多様に活用される木簡だが、最後には縦に細かく割られて、平べったい割りばし状のヘラに変貌する。かつて、これがまとまって出土した際には、その用途が分からなかったらしいが、細かく調べてみると回虫の卵が大量に見つかった。何のことはない、天平人は用を足した後、これでウンチをこそげ落としていたのである。

しかもよく調べてみると、肌触りがいいように「面取り」までしてあるというから、彼らは大変繊細な人たちでもあったのである。

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月刊「hanada」2020年7月号に掲載されたものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大竹昭子著『東京凸凹散歩』を読む

 永井荷風嘉永版の江戸切絵図を携えて大正の東京を散策、消えゆく江戸の風情を哀惜し、その変貌を呪いながら随筆『日和下駄』を書いた。

 昭和二十五年東京生まれ東京育ちの著者、大竹さんも荷風にならい、国土地理院の一万分の一地形図を手に、東京を縦横にめぐる散歩に出かけた。

 本書は、手書きの地図や写真も多くて、まるで大竹さんと一緒に散歩しているような気持ちにさせてくれる楽しい随筆である。

ところで、書名にある凸凹とは、東京都心が丘と谷でデコボコしている点を指す。普段の生活ではなかなか気がつかないが、東京は指を広げた大きな手を北西からどんと突き出したように丘と谷が海に向かって交互に延びているんだという。言われてみればその通りで、ビルや住宅をはぎ取ってみれば、都心では尾根道と谷道が交互に走っていることが分かる。東から本郷通り、白山通り、春日通り、音羽通り、目白通り新目白通り、大久保通り、靖国通り、新宿通りというように。本書は随所にそんな発見がちりばめられていて興味深い。

大竹さんの散歩は、『日和下駄』に準じて「淫祠」「樹」「寺」「崖」「夕陽」など十一の項目に従っているが、何よりも特徴的なのは強いこだわり。執拗な好奇心なのである。

 まず冒頭に紹介されるのは「坂」ななのだが、ぱっと見、坂と分からないような坂はダメで、大事なのは坂であることが目でしっかり感じられるものであること。しかも、いい具合にカーブしているところにこそ坂の妙味があるのだという。そこでお薦めなのが小日向鷺坂、四谷暗闇坂、中目黒別所坂、赤坂薬研坂。なまじの散歩本とはすこぶる違うぞ、という気配をいきなり漂わせるのである。

また、ある日の散歩は、今はもう消えてしまった渋谷川の痕跡を探そうと、「新宿御苑から水になった気持ちで低いほうへと歩き」出す。あちらこちらに〇〇橋という地名がまだ残っているので、これで川を辿ることができる。外苑西通りを下り、外苑橋下、観音橋を通り、途中から住宅街に入り、神宮二丁目を抜け原宿橋を通って、キャットストリートに入る。明治通りに出たところで宮下橋を抜け、渋谷駅地下へ。ここから地上に顔を出し、明治通りの裏手を流れ、恵比寿で進路を東にとり天現寺橋のところで名前を古川と改めて北上、古川橋、三の橋、一の橋と過ぎて東へ曲がる……。読んでいると、こんなところに大きな川が流れていたのかと驚かされる。ちなみに、かつて東急百貨店東横店の東館に地下の売り場がなかったのは、渋谷川のなごりが邪魔をしていたからだそうである。

またある日には、四谷荒木町の探索へ。「荒木町のほぼ全域が松平摂津の守の屋敷で、大小ふたつの池があり、天然の滝が流れ落ちていた」らしいが、さて、その滝は今どうなっているのか? 探っているうちに、弁財天がまつられた策(むち)の池なる小さな池にたどり着いたり……。

圧巻は路地巡り。「坂、崖、川、曲がりくねった道、空地、街路樹、塀越しにのぞく庭木など散歩の愉しみを深めてくれるものはさまざまあるが、これがなくては散歩にならない、と思うのは路地である」と大竹さんは宣い、四谷若葉町や芝高輪や三田の生活臭漂う路地裏にどんどこ入り込んでいく。「路地は表通りとは切り離された、入ってみないとわからないことだらけの別世界であり、そこを歩くのは自ら進んで誘拐されるようなものである」と読者を路地へと強く誘う。

 大竹さん曰く、散歩の妙味は「日常から一歩離れて別の時空をさまよう」こと。さて、憂きこと多い自粛の季節、マスクして、この本片手に散歩に出かけるのも一興かと。

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月刊「hanada」2020年8月号に掲載されたものです。

 

 

 

 

わが心の映画音楽

1本目

まず思い出すのは、斎藤康一監督の名作「約束」。1972年3月公開。公開時私は19歳で、新宿の映画館で観て感動。岸恵子の大人の女の色気にすっかりやらた。4、5回観たような気がする。当時、サウンドトラックはレコードなどに商品化されておらず、仕方がないのでSONY製のオープンリールのテープレコーダーをこっそり持ち込み、座席で堂々と録音した。

 

撮影は坂本典隆。映像がフランス映画のよう。冒頭の列車のデッキで岸恵子が煙草を吸うシーン。長いレンズで横顔のクローズアップ。こんな映像、これまでの日本映画になかったと、大いに感動した。

 

そして音楽は宮川泰。フランス映画みたいな曲を、と監督からリクエストされたんだろうなあと想像するが、これも1972年当時にしては大変かっこいいものだった。

宮川泰ザ・ピーナッツの「恋のフーガ」などを手掛けた日本ポップス界の重鎮的存在。

 

2006年3月21日、虚血性心不全で死去。享年75。通夜ではご自身が作曲した「ウナ・セラ・ディ東京」が、告別式では「宇宙戦艦ヤマト」の曲が流されたという。

 

ちなみに本作は、あろうことかyoutubeで全編観ることができる。

 

もひとつちなみに、この映画出演がきっかけでショーケン岸恵子さんは大変お親しくなられたという噂が当時飛び交ったが、さもありなんと思った。ショーケンがかっこいい!

 

2本目

紀伊半島の西側の真ん中あたりに、御坊という街がある。人口3万人に達するかどうかというその小さな田舎町の中央部にやはり小さな映画館があった。冬はあくまで寒く、夏は便所(水洗ではない)の臭いが場内に充満する。高校時代だった1960年代後半、ここで何本もの映画を観た。だいたいが3本立てで、通常はそれをふた回り、つまり計6本を固いぼろっちい椅子に掛けて観ていた。体力があったんだなあ、と今になって思う。

 

ここで恩地日出夫の「めぐりあい」(1968年)と出目昌伸の「俺たちの荒野」(1969年)を観て、いたく感動した。ともに東宝の青春映画だが、2作とも川崎あたりの工場で働く若き青年労働者が主人公で、それを演じているのが黒沢年雄酒井和歌子なのだった。酒井和歌子の可憐だったこと! 紀伊半島なんかでうすらぼんやりしている場合ではない! 東京へ行かねば! と強く心に誓ったことだった。

 

そして「めぐりあい」の主題曲は「めぐり逢い」といい、作詞が荒木一郎、作曲が武満徹で、荒木が歌うこの曲をyoutubeで聴くことができる。荒木が作詞をするなら作曲を引き受けよう、と武満が言ったという。いまでも全く古びることのない名曲で、この曲を聴くとアンモニア臭い「私のシネマパラダイス」を思い出しセンチメンタルな気持ちになる。

 

3本目

日本民謡をちゃんと聞いたことなど一度もなかった。

日曜のお昼時、テレビから流れてくるNHKの民謡の放送を聞くともなく聞いていた程度のことだった。のどかで退屈なものと感じていた。

 

3本目は、成瀬巳喜男の「乱れ雲」(1967年)。東宝創立35周年記念作品の1本として制作された。主演は加山雄三司葉子。交通事故で夫を亡くした司と、その加害者である加山が、愛憎入り混じった許されない関係へと転がっていく。

 

その二人の別離のシーン。和室で机をはさんで向き合うふたり。加山が言う。

「僕の好きな津軽民謡を歌います。これを聞いた人はみんな幸せになるという言い伝えがあるんです」。そして加山が歌い始めたのが「南部牛追い唄」だった。

 

これを聞いたときに脳天に直撃を食らったような衝撃を受けた。「この唄を聞いた人は幸せになる?」。冗談だろうという気がした。こんな哀切な唄があるものか、と思った。そして、津軽の人々は、いったどんな苛烈な体験をとおしてこの唄を生み出したのだろうと想像した。

 

音楽担当は武満徹。このシーンで加山に「南部牛追い唄」を歌わせようと思いたったのが武満なのか成瀬なのかは分からない。

 

Youtubeで予告編だけを観ることができる。「南部牛追い唄」の出だしだけ聴くことができる。

 

4本目

5歳で大阪市内に引っ越すまで、家に水道はなかった。共同で使用する井戸から水を汲み、バケツで運んだ。風呂の水はバケツで何度も運び、炊事の水は、台所にあった茶色い大きな陶器の甕にためていた。思えば、手間のかかる時代だった。

 

 

ALWAYS 三丁目の夕日』(2005年)で少年が井戸端で、盥で洗濯しているシーンを見て、そんなことを思い出した。もう60年以上前のことだけれども。この映画にはその頃のディテールが充満している。ミゼット、デパートの屋上のアドバルーン、空地に積まれた土管、駄菓子屋、フラフープ、各家の前に設えてあった木製のゴミ箱、重い綿布団、家の外で七輪で焼いた魚、テレビのある家に集まってみんなで観たプロレス……。

 

スクリーンを見ながら、非常に貧しかったけれど、みんな健気に生きていたんだなあ、と思う。可憐だとさえ思う。昔のことが次々に思い出され、佐藤直紀作曲のメインテーマが流れてくると涙を禁じ得ない。佐藤直紀はこの曲で、第29回日本アカデミー賞・最優秀音楽賞を受賞している。

 

ちなみに、東京タワーは1958年12月23日に竣工している。

 

5本目

スピルバーグの1993年の作品「シンドラーのリスト」。映画を観終わったその足ですぐにサントラ盤を買いに行ったほど、印象深い音楽だった。ユダヤ悲愁(憤怒ではなく悲愁)に強く感銘を受けた。主題曲の演奏はイスラエル生まれのヴァイオリニスト、イツァーク・パールマンyoutubeでその演奏を聴くことができる。https://www.youtube.com/watch?v=yZoGz0EWPY0

 

作曲は映画音楽の世界では巨匠のジョン・ウィリアムズ。彼がユダヤ系なのかどうかは知らないが、学生時代、カリフォルニア大学ロサンゼルス校で亡命ユダヤ系イタリア人作曲家のカステルヌオーヴォ=テデスコに師事しているから、そうなのかもしれない。

 

1975年2月の寒い日の夕方、アウシュビッツ強制収容所に行ったことがある。22歳の時だった。ポーランドの南の街クラコフから西へ40キロほど行ったところにあるオシフィエンチム(ドイツ語読みでアウシュビッツとなるらしい)という地に収容所跡はあった。チャーターしたタクシー運転手と二人きりで、例の「労働が自由をもたらす」と記された門をくぐり、寒々とした敷地を観て回った。他にはひとりも訪れている人がいなかった。ガス室も、ヘスを吊るした絞首刑代もトイレも焼却所もくまなく見て回った。チクロンBという毒ガスの空き缶や、メガネや、靴や切り落とされた金髪の三つ編みなどが何トンも保存されていた。

 

1975年というのは解放されてから30年しか経っていなかったからまだまだ生々しいものだった。その年の夏、パリのカフェテラスでノースリーブの女性の腕に数字が刻印されているのを目撃したことがある。生き延びた人がまだ元気に生きていたのだ。

 

6本目

ニキータ・ミハルコフの作品「ウルガ」(1991年)。モンゴルの大草原に暮らす羊飼い一家の日々の営み、生き様を淡々と描いたドラマ。モンゴルの大草原を抜けていく風の音、虫の羽音、馬のいななき。よくぞ、こんな世界を映画にしようと思ったものだと感動した。音楽がたまらない。中央アジア的哀愁というのか、スラブ的愁いというのか。

銀座で観た後、すぐその足でCDを買いに行った。

 

91年ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞受賞。音楽はエドゥアルド・アルテミエフが担当。アルテミエフは、1970年代のアンドレイ・タルコフスキー監督の映画『惑星ソラリス』『鏡』『ストーカー』の音楽を担当したひとでもある。フランス・ソ連の合作。

 

ちなみにウルガとはモンゴルの首都ウランバートルの旧称。

 

映画全編、youtubeで観ることができる。字幕はない。

https://www.youtube.com/watch?v=qm4XebWE_3c&list=PL3EF4810F3C3C5405

 

 

音楽はこちら。

https://www.youtube.com/watch?v=_qIK147JzaU

 

https://www.youtube.com/watch?v=72veAdC_EY4

 

7本目

最後ご紹介するのは、ビレ・アウグスト監督の「ペレ」(1987年)。スウェーデン移民の年老いた父と幼い息子ペレが新天地デンマークで生活を始める姿を描いている。北欧の寒々とした風景の中、最後には、父は息子を旅立たせるのだが、このシーンでは必ず胸が締めつけられる。

 

自分自身が父を捨てるようにして東京に出てきたからか、あるいは当時5歳だった長男のことを考え、いずれ別れねばならないと思ったからなのか。分からない。

youtubeで全編観ることができるが、字幕はない。

https://www.youtube.com/watch?v=Po5nB7tJ2Gc

2時間27分のあたりからの別離のシーンは涙なしでは見られない。

 

 

第41回カンヌ国際映画祭パルム・ドール、第61回アカデミー賞外国語映画賞を受賞している。

 

最後にもう1本。昨年観た映画「COLD WAR あの歌、2つの心」の主題曲が心に残る。監督はポーランド映画で初のアカデミー外国語映画賞に輝いた「イーダ」のパベウ・パブリコフスキ。冷戦下の1950年代、時代に翻弄された恋人たちの姿を、まことに美しいモノクロ映像と印象的な歌で描く。

 

主人公の女性が歌う歌の意味がポーランド語なので分からない。「オヨヨー」と歌っているのだが、何と言ってるんでしょう? わかる方はお教えください。

https://www.youtube.com/watch?v=YjARLDImFuE

 

 

沢木耕太郎「流星ひとつ」を読む

  コロナ禍で自宅逼塞中に、なんの気なしにyoutube藤圭子の歌を聞いてしまった。デビュー当時の、素朴で図太い存在感と声に圧倒されてしまい、次から次へと映像を観ることとなった。

 

  それを一通り終えると、手には入れていたけれどまだ読んでいなかった、沢木耕太郎の「流星ひとつ」という本を読み始めた。これは1979年秋から年末まで断続的に行われた藤圭子へのインタビューを、会話体だけでまとめ上げた稀有なノンフィクションである。

 

  読み始めればすぐに判るけれど、これは相思相愛の二人の親密な会話そのものである。取材者とその対象者という矩を超えてしまっているように思える。時に沢木は31歳、藤圭子は28歳。

 

  藤圭子は、このインタビューから33年後に新宿のマンションの13階から投身自殺してしまう。そのことを知ったうえでこの対話を読むと、痛々しくてたまらなくなる。藤圭子沢木耕太郎に強い好意を抱いていたであろうこともひしひしと伝わってくるのである。

 

  藤圭子の発言は真率である。あくまでも正直である。沢木はあとがきでこう書いている。<彼女のあの水晶のように硬質で透明な精神を定着したものは、もしかしたら『流星ひとつ』しか残されていないのかもしれない。>

 

  1984年ころのことだったと思う。表参道を歩いていた僕は、黒塗りのハイヤーから降りてくる藤圭子に出くわしたことがある。両手でしっかり生まれたばかりの赤ちゃん(今思えばそれは宇多田ヒカルなのだが)を抱きしめていた。いったい、どこへ行くんだろうと、好奇心から僕は彼女のあとについていった。赤ん坊を抱きしめた藤圭子が向かったのはキディランドなのだった。子供のおもちゃを探す藤圭子の姿をいまでも鮮明に思い出すことができる。

 

  1979年に引退した藤圭子はハワイを経由してニューヨークに向かう。あくまで推測だが、そこで沢木を待っていたのではないかと思う。しかし沢木は渡米しなかった。歴史にも恋愛にもイフはないのだろうけれど、もし沢木が渡米していたら、違う結末があったのではないかと、詮無いことながら想像したりしてしまうのである。

 

 

立花 隆著「知の旅は終わらない 」を読む

  昔から、「萬巻の書を読む」という言葉があるけれど、これはまあ多読の比喩のようなもの。しかし立花さんの場合は比喩でもなんでもない。何しろ、本の副題が、「僕が3万冊を読み100冊を書いて考えてきたこと」である。尋常な量ではない。実際、この新書には驚愕のエピソードが随所に登場する。

  小学1年生のとき、IQテストで1番になり、教師たちが遠巻きに顔を見に来る。このころ始まった、多読濫読は中学に入って拍車がかかり、学校の図書館のみならず、学外の複数の図書館の本をすべて読んでやろうという壮大な計画に発展。

  高校時代には、始まったばかりの旺文社の大学入試模擬試験で全国1番に。進路指導の先生からは東大の文Ⅰ(法学・経済)を進められるが、そんなものに興味はないと、文Ⅱ(文学・教育)を選択し呆れられる。

  東大入学後、マルクスの基本的文献、フォイエルバッハレーニンなどを読みまくり、ロシアの思想家ベルジャーエフに感化されて読破。専攻は仏文。20世紀の文学のみならず、興味関心の赴くまま、手当たり次第に本を読みあさる。

  卒業後は、文藝春秋に入社(先輩に蒟蒻問答でおなじみの堤堯氏がいて、アゴで使われたらしい)したものの、<忙しすぎて読みたい本もろくに読めない。このままいくと、自分がどんどんバカになる>と、2年半で依願退職

  すぐに東大の哲学科に学士入学。ここで<ギリシャ語でプラトンを読み、ラテン語トマス・アクィナスを読み、フランス語でベルクソンを読み、ドイツ語でヴィトゲンシュタインを読んだ。おまけに学科外の授業で、ヘブライ語旧約聖書購読、漢文の『荘子集解内篇補正』講義もとっていた。そればかりか、アラビア語ペルシャ語サンスクリットの授業もとっていた。>が、そんな知性も、東大紛争の激化や、経済的困窮には打ち勝てず、生活のために、なし崩し的に物書き稼業に。

  そして昭和49年『文藝春秋』誌で発表した「田中角栄研究 その金脈と人脈」で、その名を知られることとなる。昭和50年には、やはり同誌で「日本共産党の研究」の連載が始まる。余談だが、この時の担当デスクは、若き日の花田紀凱編集長。そして筆者は学生アルバイトでこの取材チームに参加。まじかに立花さんの仕事ぶりを目撃することになった。机の上に大量の本を積み上げ、それを次々に読んでいく。そのスピードには驚嘆させられた。

  目撃したのは仕事だけではない。

<いろんなバクチをやったんです。机の上で十円玉をポーンとはじいて、向こうの端っこ、落ちるギリギリのところで止まったら勝ち、というバクチね。それから、ウノというカードゲームにドボンというゲームを組み合わせて、僕が新開発したウノドボン(笑)。これで結構、小遣いを稼いだ奴もいた>。

 学生の分際で筆者もこのゲームに参加。結構稼がせていただいた記憶がある。

 実は後年、この取材チームには共産党のスパイが潜り込んでいたことが発覚(本人の告白による)。しかし、そのスパイ君も結構熱くなってこのウノドボンに参加していたのだから、。牧歌的な時代だったのだ。

  余談だが、このバイトの際に、夜食が出た。高級な鰻重だった。それまで鰻重などというものを見たことも食べたこともなかったのでひどく感激。よーし、この会社に就職しようと決断するきっかけになった。

  さて、その後立花さんは、宇宙、サル学、脳死生命科学言論の自由、がんなど常人にはできぬ幅と奥行きの仕事を精力的にこなしてきた。その様子が、新書という体裁にもかかわらず、実に簡潔に要領よく、かつ面白くまとめられている。                

 その立花さんも、今年で80歳。最後に書きたい本は、『立原道造』と『形而上学』の2冊だという。

<書き終わる前に寿命が尽きてしまうかもしれません。結局、人間というのは、いろんな仕事をやりかけのまま死ぬのだろうし、僕もおそらくはそういう運命を辿るんでしょう。>「知の巨人」も老いの前には無力と知らされ、なんだか淋しい。

 

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月刊「hanada」2020年6月号に寄稿したものに少し書き加えたものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

どうすんだ、30兆円の株

 どなたか、もしご存知ならばお教えいただきたく、以下長々と書き連ねます。お許しください。経済のことはまことによく分からないもので。

 

 2013年日銀の黒田総裁は「異次元緩和政策」なる仰々しい政策を始めました。その目的は、いつまでも続くデフレから脱却し、日本経済に2%のインフレをもたらすことでした。ところがこれがいくらやっても功を奏さない。そこで日銀は奇策にうって出ました。金融緩和なんて生ぬるいことをやっていないで、直接、大量に株(ETF)を買い上げるというのです。株価が上昇し、世間が豊かになれば物価も上昇するだろうという理屈です。株の購入は2010年より細々と行っていましたが、2013年の異次元緩和でタガがはずれ、以降、購入額は急増、2016年からは年間6兆円も買い入れているのです。

 

 そんなこともあって、2020年の頭には29兆円のETFが日銀の金庫に溜まってしまうこととなりました。そこへ襲ってきたのが新型コロナウイルスです。日本経済は大打撃。アベちゃんはない知恵振り絞って必死に考えたに違いない。「株価が下がりさえしなければ、日本経済は元気だ! クロちゃん、株をじゃんじゃん買っちゃってちょうだい!」と言ったかどうかは知らない。昨年まで6兆円が年間購入上限額だったのを、一挙にその倍、12兆円に増額! 毎月1兆円の株購入に打って出たのです。

 

 それでどうなったか。簡単に言うと、ANAJALなど青息吐息だった企業の株価が急上昇に転じたのです。絶不調のユニクロを運営するファーストリテイリングの株価が急騰する始末です。日銀は4月に入っても1日、2日、9日と各1202億円を投入。日本株は一見小康状態を保っているように見えますが、現在の株価は、実体経済を全く反映していないのです。これって、死にかけのおっさんに無理やりスーツを着せ、ネクタイ締めて頬紅をさし、「ほら、こんなに元気です!」と言ってるに等しいのではないではないでしょうか。

 

「そんなに元気なら、ちょっと立たせて見せろ」と言われて、おっさんを立たせたら、へなへなと崩れ落ちるに違いない。だけれども、一たび始めた日銀の株の買い上げは終わらせたくても終わらせられない。終わったとたんに、ニッポン経済の裸の実力が世界に晒されてしまうんですから。

 

 すこし世界を見渡せば、このコロナ騒動、数カ月で終わるはずがないことは誰の眼にも明らかです。日本では、恐らく来年の今頃、猖獗を極めているはずで、モリちゃんだって、オリンピックのオの字も言わなくなっているはずです。「延期」なんていうのは気休めで、首脳陣は最初から「中止」と分かっていたのではないでしょうか。1か月の自粛は延々と延長されるに違いありません。そのうち、やけになったパチンコ屋やカラオケ屋が「殺されてもいい、店を開ける!」と鼻息荒く暴れる回ることになるでしょうが、その頃には日本経済のみならず世界経済がどん底に落ちているものと想像されます。

話が長くてすみません、私が知りたいのは、日銀はそのころまで毎月1兆円、株を買い続けるのだろうかということです。さすがに意味がないことに気づくのではないだろうかと思うのです。

 

 その次に知りたいのは、30兆円を超える株を、日銀はどうするのだろうか、ということです。いつまでも握りしめていてもしかたないし、かといって、一挙に売り出せば、人類がこれまで経験したことのない株価大暴落が起きるだろうし、ちびちび売っても緩慢に値下がりしていくことは間違いないし。本当に、どうするんでしょう?

 

 それに、もし抱え込んだままだと、今回のコロナショックのような事態で株価が暴落するようなことがあった場合、日銀は巨額の含み損を抱え込むことになります。一国の中央銀行が株で兆円の含み損を抱えたとなると、これは世界の笑いものになるだけではなくて、円の信認の失墜、大変な円安の到来となります。戦後の振出しに戻って1ドル360円なんてことになりかねません。

 

 長いついでに、もう少しお付き合いください。ここまで株(ETF)の話だけ書いてきましたが、実は、日銀は国債も500兆円弱、抱え込んじゃっているんです。日本の国家予算は約100兆円です。およそ5年分の国家予算に匹敵する国債を市中からせっせと買い集めてしまったわけです。これは今後どうやって決着をつけるんでしょうか?

 

 そして最後にどうしても分からないことが。国債に500兆円、株に30兆円と派手な数字を書いてきましたが、この巨額のお金、日銀はどうやって工面したんでしょうか? 

ひょっとして、輪転機でお札をがんがん刷っただけなんでしょうか?

どなたか、お教えください。

 

 

佐野眞一氏、大いにぼやく

  このブログをスタートするにあたって、他人の日記というものに興味が起きた。

  永井荷風の「断腸亭日乗」やら山田風太郎の「戦中派不戦日記」など、参考にすべき名作日記はいろいろとある。そんなことを思っていた時に本屋で偶然、佐野眞一氏の「枢密院議長の日記」(講談社現代新書)なる本に出くわした。

 

  その帯の惹句に心が動いた。

 

<大正期、激動の宮中におそるべき“記録魔”がいた

世界最長の日記に佐野眞一が挑む!

宮中某重大事件、皇族・華族のスキャンダル、摂政問題、白蓮騒動、身辺雑記・・・・・

  とにかく書いた、何でも書いた。

  誰も読み通せなかった近代史の超一級史料をノンフィクションの鬼才が味わい尽す!>

 

   うまいもんですな。

担当編集者が興に乗って、パソコン相手に書きなぐっていたらどんどこ書けてしまって、ええい、全部帯に載せちゃえ、と言ったかどうかは知らないけれど、とにかくにぎやかな帯が出来上がっている。

 「世界最長」という部分にまず、眼を奪われた。

ミシシッピ川じゃあるまいし、そんな長いことに意味があるんだろうか、といぶかしんだ。次に「誰も読み通せなかった」というところが妙に気になった。なんで、読み通せなかったんだ? そんな凄い日記なのに、と誰しも思うだろう。

 

    そう、そう思ってしまったときに、もう、負けてしまっているのである。担当編集者にまんまと乗せられてしまっているのである。

 

    ページを繰ってみると、それはもう、もの凄い日記であった。

 

    まず、驚かされるのが、その分量。日記の巻数は、小型の手帳、大学ノートなど297冊。執筆期間は大正8年から昭和19年までの26年間。分厚い本にして50冊は優に超える量だという。しかも、癖のある手書きなので、解読は容易ではない。

    日記の筆者は、倉富勇三郎。1853年久留米藩の漢学者の家に生まれ、昭和23年、96歳で死去。東大法学部の前身の司法省法学校を卒業後、東京控訴院検事長朝鮮総督府司法部長官など経て、枢密院議長などの要職を歴任したエリートである。佐野氏の比喩を借りれば、「石部金吉に鎧兜をつけたような」人物である。

       

  「正直言って、これほど浩瀚な日記を書きつづけた人物が、本当に仕事をするひまがあったのだろうかと、訝られるほどである」という膨大な、この倉富日記の完全読破に挑戦した先達が2人いた。

ひとりは倉富の縁戚にあたる作家の広津和郎。だが、その長大さに途中で投げ出し、次に挑戦したのが、みすず書房創業者、小尾俊人氏。が小尾氏も、倉富のみみずの書のような手書きに辟易して撤退。

そんな難攻不落の巨大日記に、佐野眞一氏が敢然と挑戦! だと思って読み始めたら、全然そんなことはないのである。

    実は、佐野氏も日記全部を完全読破できていない。それどころか、26年分の中の2年半分しか読めていないのである(しかし、それでも、400字詰原稿用紙で5000枚ほど)。

しかもそれだけを解読するのに5年を費やし、本書を完成させるためにさらに2年を費やしている。よっぽどの難業だったようで、佐野氏は泣くのである。泣いて泣いて泣きまくるのである。

実は、ここが本書の一番面白い部分でもある。引用してみよう。

 

  「ただただこの長い日記をひたすら読み込んだ者の立場から言わせてもらえば、倉富日記の記述は、重複がきわめて多いせいもあって、死ぬほど退屈である」(P17)

  「例えて言うなら、倉富日記を読む作業は、渺茫たる砂漠のなかから、一粒の砂金を見つける作業に似ている」(P18)

  「倉富の記録精神は、やはりこの日記を全体としては砂を噛んだようなものにさせている。倉富日記を読む者は、益体もない記述の連続に、いやでもうんざりさせられ、必ず途中で投げ出すことだろう」(P20)

  「こうした味気ない記述」(P21)

  「ほとんど無味乾燥なこの日記」(P21)

  「倉富は(略)、相かわらずどうでもいいようにしか思えないことを、おごそかな文体で述べている」(P38)

「読んでいてじれったくなるほど冗長な原文」(P66)

  「修身の教科書にでも出てきそうな倉富の生活からは天才のひらめきも、特異な才能を持つ者が発するアブノーマルな底光りもまったく感じられない。(略)たゆまぬ努力によって該博な知識を身につけた超のつく凡人だった」(P109)

  「倉富日記には、(略)くどくどしい言い回しが多く、書き写すのもうんざりする」(P227)

   「倉富はなぜこんな埒もない出来事を、誰に読まれるわけでもない日記に書きとめたのだろうか」(P249)

 

     もう、ボロクソである。ここまで酷評されると、そりゃいったいどんな日記なんだろう、とかえって興味がわいてくるというものである。

読みたくなってきたでしょ?

 

     返す刀で、倉富自慢の漢詩についても、情け容赦ない。

  「悲憤慷慨の思いだけは伝わってくるが、素人眼にもよくできた漢詩とは思えない。(略)対句仕立ての出来の悪い日めくり格言集を読まされたようで、思わず、吹き出してしまった」(P88)

    坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。ついに、その舌鋒は倉富の容貌にまで及ぶ。

  「倉富の風貌は(略)、村夫子そのものである。倉富の春風駘蕩然とした表情には、緊張感というものが微塵も感じられない。官僚のエリート街道をこの顔で登りつめてきたかと思うと、本人には失礼ながら、その不思議さに頭が煮えてきそうだった」(P101)

 

     そして、佐野氏はついにこんな告白までしてしまうのである。

  「ある日曜日、読み終わった倉富日記を朝から晩までパソコンに向かって打ち込む作業を続けた。夜になって一段落したとき、終日かかって書きあげたのが、倉富が執筆した1日分の日記に過ぎなかったことに気づいた。

    そのとき大げさでなく、体中に重い鉛をまきつけられて、深い海に沈められるような脱力感を覚えた。(略)正直に告白すれば、その時点でこの仕事をやめようと思った」(P250)

    にもかかわらず、7年の歳月を費やして、本書をなんとかかんとか完成することができたのは、

   「倉富日記を何とか読み進めることができたのは、(略)刺激的なエピソードが、索漠たる叙述の中に時折現れ、その都度、鞭をあてられるように覚醒させられたからである」(P248)

 

   あくまでも、ボロクソである。

 

    そのような、前人未到の長大な日記を書き記した倉富が最後に書きとめた1行は、昭和19年の大晦日の日付欄にある。

  「午後五時{十七時}三十分頃、硬便中量」

    

    硬いウンコが普通の分量、出た。

 

    人の一生というのは、なんだか悲しい、としみじみ思う。

(2008年2月記)